大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

俗流実存主義者のフィクション観。

nuryouguda.hatenablog.com


 奇妙にも、自作の漫画から縁故を深めた、高校生時代から愛読しているブログの主であるヌ・リョウ・グダ氏に、拙著をフックアップされたので、その記事群への感想として。先ずは上記を読んでから、対戦よろしくお願いします。

 彼の逃れがたい境遇と立場を鑑みて、私もポジショントークをする。別にするべきではないと思うけど、した方がいいと思ったので。

 私は親戚の歳の近いイトコを、3年前亡くした。ペットの動物たちも次々と死んでいった。

 同じく3年前に住んでいた実家のマンションからは、タバコや騒音といった些細な隣人トラブルで、10件以上の警察沙汰を経た。精神病棟に送致される直前まで精神の錯乱を起こした。

 送致直前の医師との面談で、精神異常ではないと判断され、私は家から追い出される形で一人暮らしを始めた。抗うつ剤向精神薬は一向に手放せない。トラブル当事者の隣人は、ちかごろ刃物沙汰で捕まったらしい。一歩間違えたら…、なんて考えは今更しないが。

 私は、とにかく荒みきった時期を経た。

 だけど、抗精神病薬の影響か、哀しみとか、悔しさとか、憎しみとか、そういう感情が特段ないのだ。

 近年は、マックス・ヴェーバーの「プロ倫」とか、ヴォネガットとか、「ジョジョの奇妙な冒険」の影響で、俗流プロテスタント思考を手に入れて、予定説だ。予定調和だ。と人生を色々諦められるようになった。

 漫画にお熱を上げてからは、やれニーチェだ、ハイデガーだ、ヤスパースだ、メメントモリだ!一日一日をちゃんと生きろ!とかいう感じの、さも高校生が陥りそうな俗流実存主義者にもなった。

 そういうわけで、Twitterとジャンプルーキー上では「ツァラトゥストラ」と名を替えて漫画を描いています。オ◯ニーショー漫画なので、恥ずかしくてあまり宣伝したくないんじゃが。

rookie.shonenjump.com


(ワタクシのTwitterのヘッダー画像。デジ絵歴9年の画力はダテじゃない!)


 ―そういうわけで。

 コロナ騒動はもう、終わったってことでいいのかな? まぁ、フーコー的生政治社会の側面を垣間見せたコロナ禍があって、およそ日本社会の多数派の人々の倫理ベースは、とにかく「いのちだいじに」ということが詳らかになった。

 命は大事だし、私自身、実存主義者としても、死ぬのはまっぴらごめん。みんなも死ぬな。な考えなので、優生学(反出生主義など)/ナチズムには一切共感しない。したとしても外山恒一レベルの思想ぐらいかな。

 海外はさておき、日本特有の感覚からか、日本のアニメヘッズたちの間では、サイコパスだと人の言う「G-レコ」のベルリ・ゼナムや、「進撃の巨人」のエレン・イェーガーや、もっと遡れば、「翠星のガルガンティア」のレドや、「まどかマギカ」の暁美ほむらを、生命軽視だとチクチク口撃される歴史があったりする。

 「水星の魔女」でも、生命倫理観の違いをギミックにした演出があったり。「リコリスリコイル」(私の漫画のライバルだ!)は、秀逸な演出力で、巧みに倫理観への違和感を逸らす技術が施されていた。

 しばし、日本の漫画やアニメにおいては、人物の生き死にの扱い方はナイーヴだ。

 こういった、生き死にに焦点を於いた作品で、もっとも影響力を持った作家は、富野由悠季/庵野秀明/宮崎駿の、三大巨塔であろう。

 彼らは口々に、生命の尊さを説く。いつかのテレビ番組で、宮崎駿が発言していた、「極めて生命に対する侮辱を感じます。(生命への侮辱を許さない。)」の言葉のパースペクティブ上に彼らは存在している。

 日本サブカルチャー界に強すぎる影響を持つ三大巨塔だ。さぞかし、アニメ好きには彼らの言葉は重い。

 「トミノの説教なんてまっぴらだ。」なんてうそぶいて、欧米人の価値観にその身を置こうとした(私が個人的に敬愛してやまない)伊藤計劃の著書ですら、この日本人的倫理の檻から抜け出せずにいる。

 だが日本人が嗜好するのは、なにもマンガ/アニメ/ノベルにとどまらない。

『ゲーム』だ。


銃をこちらに向けてくるヤツは、目標をセンターに当ててR2ボタンでエイムして撃ちコロせ!

車で市民を轢け!サツに見られてなきゃな!

 なんて、あまりにもキナ臭すぎるゲームが、日本でももれなく大ヒットしている。

 そんでもって、そういう描写が白眼視され、「CERO」という、映倫ソフ倫などと比べても、特殊なタイプの倫理機構を日本のゲーム業界は携えている。

 かくいう私もこのテのゲームが好きで、今年は、「バイオハザードRE4」を150時間プレイしてしまった。

 クリーチャーとはいえ、理性を失った人間という設定の標的を、トンプソン・マシンガンやRPG-7で五体をバラバラにして楽しんでいた。そこには一種の快楽があった。

 こういう「Z指定」のゲームを愉しむにあたって、ナイーヴな倫理感覚など愚の骨頂。

 むしろ、海外版に比べて、グロテスク描写の抑えられた日本版の暴力ゲームにブーイングが起こったりするのも、お決まりの風景。

 みんなシゲキが欲しいんだ。

 ―して、そもそも00年代では、オタクたちの間で「エロゲ」文化が隆盛していたではないか。という話は、セックスと殺戮は全く別なので、ここでは論外。―

 こういう暴力ゲームのシングルプレイモードでは、何百体と現れる敵を撃ち、あまりにも利己的としか言えないほどの暴力を振るい、それでいて悪意を感じさせないストーリーテリングがなされている。

 そして、プレイヤーには、それを享受できる脳内の構造がある。

 われわれに撃ち殺される、コピーアンドペーストで生成されたモデルの敵キャラは、日々リアリティをあげて作り上げられど、ただの標的でしかない。

 そんな標的を撃ちまくり轢きまくるゲームに熱狂する姿など、親には到底見せたくはないし、私に子供がいたら、そもそも、させない…だろう。

 リザルト画面に表示される。統計学上の数値でしかない、殺した敵の数。

 ひるがえって、我々がリアルで生きている社会において、我々は統計学上の存在でしかない。仕事の成果も。SNSの文字上の人間関係も。

 会社に行ってタイムカードを押し、家に帰って、ネットにつらつらと思いの丈を書き込んでは、プレビュー数を気にしている。多くの日本人。

 ワクチンだとか、マイナンバーだとかでも、統計学上の存在として扱われる私達。

 社会という母体から見れば、私達など、ゲームで現れる雑魚キャラクターと同等の、単なる数字なのだ。

 

 そんな残酷な事実から目を背けたい。

 作劇では、主人公に共感を集めさせるのが定石となる。

 そして、共感のしきい値がだんだん減るにつれ、同じテクスチャで作られたコピペキャラに成り下がっていく。

 自分など、社会では所詮、「ハナからオマケです。お星さまの引き立て役Bです。」だと割り切るニヒリストや唯物論者には、フィクションなど、そもそも必要ない。

 そうとは思わない。「俺は畜群でも、ダス・マンでもない!」という実存のくすぶりを、少なからず持つ人間のために、フィクションというものは初めて存在する。

 フィクションを受け取り、己の実存を通して解釈する。

 それを経て、この作品は、面白い/つまらない。倫理的にマトモである/そうではない。と脳内で濾過し、その価値を判断する。

 フィクションとは、利己的な、あまりに利己的な存在なのだ。

 フィクションとは、他者を差別し、作品の倫理性に賛同することによって、己を正当化する武装でしかない。

 俗流とはいえ、実存主義に目覚めた私は、フィクションはそれ以上でもそれ以下でもない。という事実に直面した。

 だから、ニーチェは、読者の実存を奮い立たせるため「ツァラトゥストラ」を、論文でなく物語形式で書いたのだと思う。

 ハイデガーも、「存在と時間」の論文をすっぽかして、ナチスという大きな物語に傾倒したのだと思う。


 フィクションに影響されすぎるのも、あまり愉快な話ではない。

 巧妙に仕掛けられた、時計じかけの差別装置たる「フィクション」に呑まれず。フィクションは、適度な距離感で楽しもう。

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『ぼっち・ざ・ろっく!』と、2023年の邦楽インディー・ロック界の覚え書き

10年ほど前の話。

暫く連絡を取っていないが、私には、声優志望の友達がいた。
彼はかなりのヒネクレた“中二病”で、声優学校のチャラい同級生を毛嫌いし、蜷川や富野の「本物の芝居を見ろ」という言葉を真に受け、よく私を、下北沢に居る名も知れぬ小劇団の戯曲に連れて行った。

私には、シェイクスピアも、チェーホフも、お芝居もよく分からなかった。

しかし、下北独特のサークル感。狭い道にシャレた格好の若者が往来し、古着屋やライブハウスのある「下北文化」にあてられた私は、オタク文化圏を一歩出て、いわゆる“サブカルクソヤロウ”の世界に、まんまと導かれてしまった。

ミニシアター映画にはそこそこハマったが、何より私は「日本のインディーズロック」に興味を惹かれた。(それと同じくらい古着にもハマったが。)

東横線から渋谷で井の頭線に乗って下北沢に降り立ち、下北沢を拠点に活動してるバンドのライブや、サーキットフェスには、足繁く通ったものだ。それこそ、下北沢SHELTERにも。

頻度は落ちたものの、古着収集にはまだアクティブなので、革ジャンやら、ナイキのバッシュやら、米軍のベトナム戦争のジャケットの実物を買いに行ったついでに、路上ライブの群衆に入ったり、ただアンプから響くギターノイズを聴きに、全く名前の知らないバンドのライブに気まぐれに入ったりする。

彼らが鳴らす うら若き初期衝動にはエネルギーを貰えるのだ。内輪ノリの強いバンドには場違い感が半端なくて逃げちゃうけど。

下北沢には、独自の重力圏がそこにあって、まだ若い頃だった自分は、駅前の人混みに混ざると、謎の無敵感を感じた。

そんな下北沢文化を題材にした『ぼっち・ざ・ろっく!』。

一台ブームになったこの作品の狂騒が少し落ち着いた今、アレコレと振り返ってみようと思う。流行とは落ち着いてから総括するものである。

ぼっち・ざ・ろっく!に関しては、原作漫画を、――アニメ化以前の――去年の春頃に読んだ。まさかここまで熱狂的なブームになるとは、この時は誰も思いもよらなかっただろう。

私は、ネット越しであるが、今も下北沢のリアルタイムなロックシーンを確認している。

サブスクとyoutubesoundcloudTwitterを駆使して、ヒマさえあればひたすら音楽をDIGる。10年前に比べると、ネット越しでもシーンがそこそこ分かるのは、便利な時代になったものだと感じている。

下北沢に行かずとも、自宅からそこそこ行きやすい中規模以上のハコで演るバンドのライブには行きまくってる。

さて。2022年、下北沢発で一番ブームになったバンドは『サバシスター』であろう。

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期待の若手。フォロワー間でもそこそこ流行ってた。

「ジャージ」。

ぼっちちゃんも、アイコニックな「ジャージ」を着用している。

しかし、このふたつのジャージは、交わってないように感じてしまう。

ぼっち・ざ・ろっく!がアニメ化され、ブームの真っ最中。私は下北系の某バンドのライブに行った(エゴサされたくないので名は伏せる)。観客の大学生ぐらいの男女のアベックが「ぼっちが面白い」「ぼっちちゃんかわいい」という旨の会話を前列でしていた。

しかし、演奏している側は、MCでぼっち・ざ・ろっく!に言及はしないし、Twitterでもバンドマンのツイートにはぼっちの題名は挙がらない。

このずれは何なのだろう。このジャージの掛け違いはなんだろう。

生粋のアニメオタク大御所バンドマン。アニメのご意見番ロッカー、the mirraz畠山氏のブログにある「2022年アニメ総評」では、ぼっちについて一箇所も言及していない。(尤も、でかいバンドなので、ビジネス的にあえて書かなかったかもしれない。)

だが、もはやオタクとサブカルに境界線はない時代だ。アニメを観るのは普通なバンドマンはたくさん居る。アニメアイコンで活動するバンドマンもたくさん居る。Twitterのオタクギタリストのアカウントなんて100万人はいるだろう。

しかし、こんな奇妙な平行線を感じる現状にあるのが、2023年6月現在までの日本のインディーロックバンド業界である。

私がオタクなアニメに関するツイートを連呼すると、リムブロを容赦なくかましてくるバンドマンも居た。

オタクとサブカルには、境界線がないように見えて、未だ文化圏のズレがある。

だけど、それは当然だろう。

そもそも下北沢なんて土地は、特定の目的がなければ行かない場所だ。

ライブをしに/見に行く人。ミニシアターでフランス映画を見に行く人。古着集めで東京中を周り、高円寺と渋谷のついでに古着屋に訪れる人。馴染みの飲み屋に行く人。

下北沢は、観光地ではない。

万人が楽しめるものがある街ではなく、一風変わった趣味に特化した土地。それが「サブカルの街」たる所以の下北沢だ。

オタク文化も一風変わっているが、アニメイトとらのあななんて下北沢にはない。

だが、徐々にその文化圏の「ズレ」も、インターネットを通して、あるいは世代交代を通して変わっていくだろう。

これからの未来は、スマホネイティブ。SNSネイティブの若者たちがステージに立つ。

バンドをやる人なら“読んでて当然”な「BECK」や「グミ・チョコレート・パイン」はもはや古くなってしまった。

そこに「ぼっち・ざ・ろっく!」が新陳代謝的に代入される。

そんな未来はあると思う。

「神道」の国教化に関する考察。大政奉還と王権神授説。

明治維新における「大政奉還」は様々な狙いがある。

大政奉還の理由は、列強に追いつくため、合理的でスピーディーな日本の近代国家化の方法として、大政委任論をつくり、天皇を中心とした神道の国家を建設する。という言説が最もポピュラーなのだろうか。

実際の理由は歴史学に任せるとして、大政奉還と「王権神授説」の関連性について考えたい。


古来より、国を統べる強大な権力を持った王や君主は、神に近い存在であった。

古代ローマが帝国崩壊すると、ヨーロッパでは、キリスト教の宗教観が、国家形成に及ぶまで深く台頭する時代が始まる。歴史区分における「中世」の到来である。

国を統治する王は、神より権力を委任された、神意の地上代行者だ。という「王権神授説」が様々なヨーロッパ諸国で根付くことになった。

しかし17世紀にまで至ると、清教徒革命などの市民革命を通じて、国家権力は市民のものであるという意識が徐々に強まっていくことになる。

加えて社会契約説が登場し、17世紀~18世紀の「近代」欧米は、神の権力の時代から市民の権力の時代へと変遷していく時代であった。


そして時は1868年。明治維新を遂げた日本では、神道が国教化された。

欧米列強では、王権神授説など200年前のオワコン。「神は死んだ。」とされる時代に、極東・日本で、神が権力を持つ国家が誕生したのだ。

中国やアジア諸国では、いわば儒教が国教である。 神の子孫である天皇。つまりは神が統治する列強国の存在は、ことさら19世紀後半の世界において、唯一無二のケースではないか。


市民が権力を持つ「理性主義」こそが常識であった世界において、あえて神が権力を握る「非理性主義」を執った列強国家の登場は、あまりにも衝撃的であろう。 極めてロックでパンクな反骨精神あふれる発想だ。

本当の狙いはなんであれ、この神道国教化策と近代世界の結びつきは、かなり面白いものである。

文化盗用の危険性について。

芸術というものは、有史以降、文明社会と密接につながっている。

芸術は、人間の実存を社会に表明する行為である。

とりわけ、グローバリズムが世界を覆う前の世界。芸術というものは社会を動かせるだけの力があった。

人類史において、その最たる現象は、言うまでもなく「ルネサンス」だ。

中世を近代へと進歩させる力が、芸術運動に存在していた。

あるいは、ナチス党では、徹底的にシンボリックな装われたデザインが、国民をファッショさせる大きな柱になっていた。

ヒトラーは、芸術が社会を堕落させるものとして、「退廃芸術」なるレッテルを作ったし、同じく芸術が社会を破壊させることを恐れたのも、ブルドーザーでロシア・アヴァンギャルドを破壊しつくしたソ連だ。

岡本太郎の言を借りれば、芸術は政治と経済に並び立つものだと云う。


西側諸国の資本主義社会が成熟し、ポストモダンという時代に至ったころ、芸術は完全に商品に堕した。

商品は、社会を動かす芸術たりえない。

芸術は商品としてパッケージングされ、商品は、お金という上位の共同幻想を越えられないからだ。

すべてがビジネスに回収される。芸術活動が飯の種になる。「背に腹は代えられない」ものになる。

資本主義社会は、過去、人類史に影響を与え続けた芸術を完全に制御するに至った。



と、ここまでが「商品」の前史である。

だが、芸術は商品に変われど、人間の実存は変わらない。

実存が生み出す表現の文化は営まれ続けるのだ。

人々が何気なく消費してる商品には、文化というバックボーンが存在する。

文化とはプライドである。矜持である。暗黙の不文律がある美学である。

商品に堕落した創造物を肯定する職人根性。

たとえ商品でも、社会を動かせるはずだと信じる実存的な信念。それが文化だ。

その信念を理解せず、文化を理解せず、何気なく商品を消費する行為は、余りにも恐ろしい行いだと感じる。

ボードリヤールをはじめとしたポモ思想家を援用するまでもなく、いま、文化は記号されている。

それは大いなる実存的恐怖だ。

実存、すなわち自我を支える幻想が崩れ去る。

日本社会の若者文化で例を挙げれば、黒人文化(ブラックカルチャー)の安易な記号的消費であろう。

社会の中で虐げられし者たちが培ったものを、流行やオシャレで思考停止し、消費することは美学に反する。

たとえば、ブラックミュージックで表現活動しているアーティストは、少なからずいま米国で社会問題になっているBLMにスタンスを表明するべきだ。それが最低限の礼儀だ、と私は思う。

さもなければ、文化の盗用になってしまう。

ja.wikipedia.org

何が、それと連なっているのか。

それを探る意思のない記号の消費は、もれなく文化盗用と断じざるを得ない。

私は、このウィキペディアの記事のネイティブアメリカンの装束をしている男の画像が怖い。恐ろしくてたまらない。

そして最後に、表現の自由だとか。商業主義だとか。「作者の気持ちを答えなさい」だとか。

そういったものを語る以前に、この、実存と社会の繋がりである芸術と文化の有り様を、よく考えてから、創作・消費するべきである。

「陰謀論者」とは何者か。

かつて、「愛と平和」というスローガンは最も強く、否定/批判することが難しい言葉だった。

少なくとも、現代日本社会というものは、愛と平和を享受して当たり前。それ以上に愛と平和がなくては成立しえない社会だからだ。

愛と平和は、「良識」という価値観に接続される。「良識」とは、社会で他者と調和することに必要不可欠なものである。それによって「良識」は、「常識」と化して、現代社会の地盤になった。

愛と平和はゼロ年代イラク戦争反戦運動の時代ではよく目立った。

良識で調和された社会を破壊する、常識はずれな戦争に反発し、マザー・テレサガンジーのような慈愛や友愛を根拠にした、愛と平和・良識・反戦を訴える潮流は記憶に新しい。

しかし、2020年代のいま。「愛と平和」は限りなく無力であることが分かった。

いくら愛と平和を叫ぼうが、爆撃は止まらなかった。

ベトナム戦争からイラク戦争におけるまでの半世紀。いくら愛と平和を叫び、ヒッピーというカウンターカルチャーが産まれ、ミュージシャンや活動家が融和を訴えても、その愛と平和という価値観は無力にして無意味であることが、20年代を生きる我々の骨身に染みてしまった。

ウクライナ戦争が進行中のいま、彼らは、この潮流はどこに消えてしまったのだろうか。

私は音楽に聡いが、平和を歌う歌はいま圧倒的に少ない。マイケル・ジャクソンのようなスターはいない。20年代のグリーンデイも現れない。

ヨーロッパの隣り、日本からすれば地球の裏側で戦争が行われていても、反戦活動にかつてあったような力はない。

もはや日常化されてしまった戦争。それらは誰にも止められないので、沈黙するしかない人々。

では、愛と平和はどこに消えたのか?

そこに至るファクターは、もうひとつあった。新型コロナウイルスの蔓延である。

世界的な正体不明の疫病に対して、急ごしらえのワクチンを打ち、いちおうは社会を維持することに成功した世界。

しかし、人々の間に軋轢がなかったわけではない。

ウイルスとワクチンと共に発生したのが、「陰謀論」である。

陰謀論は、これら戦争と疫病と共存する奇妙な世界の背景で、じわじわと発展していった。

その土壌はアメリカ国内で「Qアノン」のような形として存在していたが、世界規模で飛び火したのが、この新型コロナウイルスの流行であろう。

あまりにも世界は奇妙な形に変容してしまったのだから、先鋭的な「愛と平和主義」の人々の考え方も変容するのは当然なのかもしれない。

「スピリチュアル系」「陰謀論」は、この奇妙キテレツな今の世界で、全く相性がよかった。

カルト宗教の勧誘のような「良識の押し付け」で、「ワクチンを打つな」、「裏で世界をDSが操っている」、と叫び。カルト宗教のトンデモ神ように、それら一大スペクタクルな陰謀論を信奉してやまない。

思うに、愛と平和を叫ぶものたちは、これら陰謀論に食われていっている可能性が高い。

声の届かぬ反戦活動。未知のウイルス、マスク着用、急造ワクチンの正誤をどうジャッジするかの議論。日本国内でも未だ暗礁に乗り上げる原発問題。

すべて結論は出ないまま。結論を急ぐ者たちが陰謀論にかかりやすい傾向におかれている可能性が高いと、私には見受けられる。

結論を急ぐあまり、トンデモ論に帰結する危険性。

陰謀論なんか信じちゃいないと思っている側の人間でも、それらを今一度精査・注意しなくてはならないのだろう。

「ぼくらの」を一気読みして憔悴した

🤮

もう、しばらくすれば。2022年間。地球人類が連綿と紡いだ西暦のこよみに、一つ数字が刻まれる。傷跡のように、「2」にもう一角、「3」と。

ぼくはこの事実に耐えきれない。毎年こんなことを思いながら、布団でただ横たわる。

今年は特にひどくて、食事もサラダ半分ぐらいしか食べれなくて、免疫力低下で治らない口内炎に痛めつけられながらビタミン剤を飲んでいる。日の光が気持ち悪くて常にカーテンをしいている。


「この星の無数の塵の一つだと今の僕には理解できない」


連載当時。途中で追うの止めて、欠けてた単行本を買った。2008年頃だから、中学生の頃に読んでいたものだ。アニメは観てない。あらためて、巻末のトークでアニメ版は闇が深そうなのを知って観る気もない。

たまたまAmazonで新装版の表紙絵をみたのがきっかけ。なんか得体の知れない恐怖感を感じませんか?

ちょうど「なにもち」を再読してたこともあったけど、コレはお世辞にも、新キャラ登場から集中力が途切れてしまう…。

うーーーーーん。

なのに、「ぼくらの」はどうだろうか…。再び読んだら指が止まらない。

当時は飛び飛びで読んでたこともあったし、僕はあのころ鈍感だったから、それほど重く受け止めてなかった。

このメンタルで一気読みするのには重すぎた。

読中、読後に、猛烈な離人がおそいかかる。

およそ常人では発想しえない。15人+数名の、凄まじくリアリティのあるバックボーンと悲劇。

それらが緩みも絶え間もなく描かれるものだから、非常にクる。

鬼頭莫宏先生流の独特な描写方法で描かれた、構築美とも言うべき、このひとりひとりの物語を、マンガ業界にありがちな路線変更とかナシで、11巻貫き通せたのは凄い。を通り越して、怖い。

特に最終巻の決断には畏怖しかない。

(以下ネタバレ込)



しかしその反面。鬼頭莫宏先生の作品には、違和感もあるんです。偏った思想を押し付けられるような。

しかもそれらを正当化するすべに長けているのが、この「ぼくらの」なんですね。

なにせ完成(成熟)された説得力を持つ、「鬼頭莫宏先生流の独特な描写方法」というフォーマットに沿って描かれるものですから。


www.cmoa.jp


百聞は一見にしかず。公式立ち読みで。

他の漫画とは描き方が違うでしょう?

コマ割、緩急。というとすごく陳腐になるけど。そこも究極に完成されていて。人を物語のレールに乗せる「説得力」があります。

たいてい面白い漫画というものは、このような、「説得力」のあるフォーマットを持たなければ成立しません。

思いつくに、「ガンツ」とか「グラップラー刃牙」とか、内容の如何に関わらず、スラスラ読めるのは、説得力のあるフォーマットを有しているからです。

「ぼくらの」もそのうちの一つとして見事に成立しています。

とくに「ぼくらの」のすごいところは、こんな凄惨な内容に突飛なギャグ顔もいけてしまうキャラクターデザイン。

これから性的虐待を受けようとする(未遂に終わるんですが)シーンなのにこんな顔。

突飛なギャグをやらかして失敗するというのは、素人の漫画に必ずあります。僕が夏に描いた漫画もそのひとつです。だから見事だと思います。

構築美ともいうべき悲劇のシナリオに、このフォーマットが合致して、この漫画は加速度的に読者の指をすすめます。

しかし、それでも、完璧な漫画というものは存在しないのです。

作者が語りたくて仕方ない物語に「それは誘導だ」という読者の邪推が、しばし矛盾を生じさせるんです。

「ぼくらの」は、モジ編までの誘導がすごく上手いんです。

まず1巻から絶え間ない謎で「誘導」させ、4巻での、モジの死が、鮮やかな殉死のように見せる「誘導」。

あまりに完璧すぎるので、スラスラ読めてしまうんですが、子供らしくないとか、もっとまともな死の実感はないのかとか、ルールの後出しが卑怯とか、そういう屁理屈を構えてしまう。

なんか、この漫画の子どもたち全員が、一定の正義に属していて、それを見ているのが面白いと理解っている上で苦痛なんです。

「一定の正義」こそが鬼頭莫宏先生の語りたい「思想の偏り」なんです。

とくにハタガイ先生がキリエを説得させる言い方とか、それに対するキリエの受け止め方の偏りが、誘導的だと思いました。

だけどキリエのエピソードが一番おもしろいんですよね…。

あんま人のブログから引用したくはないんですが。ハタガイ先生とのくだりから、このシーンと、次のシーンでの決意が、ものすごく気に入ってます。


命を奪い合うなら礼儀が必要だ。

美学がないと、戦うことなんてできませんから。


そして、もうひとつ、この漫画が「誘導」させなかったのは。

肉体的痛みの表現。

アンコ編で。アンコの足が溶けるんですが、ゴア的表現を除いた痛みを描くことになんか失敗してる気がしますね。

それ以降、コックピットまで攻撃が入る恐怖を感じるんですが、痛覚が読者と共有されないような感覚を覚えます。

カンジ編で痛みを語るのに、やはり痛覚を共有できないのか…。

あとは、最後の畳ませ方とか色々言いたいんですが、「誘導」しきれてない面もあげられるんです。この作品。

それは、作者の「思想の偏り」が、読者とラジカルすぎる乖離を引き起こしているんだと思います。

・・・・・・・・・・・



読んで、思いを馳せながら一晩寝て、記事を書いたんですが。言いたいことはこれくらいです。

とにかく面白く、なおかつメンタルが削られるので、精神状態が善いときの読書をおすすめします。

Twitterと敗北主義 ランバ・ラルとアムロ・レイと僕

「敗北主義」という言葉がある。

漫画ヘルシングを読んだ人ならたぶん言葉だけ知ってるであろう単語。

敗北主義とは - コトバンク

辞書の意味合いではこういう意味だ。

くだけて説明すりゃ。「負けてても良いんだよ!」に尽きてしまう意味。

僕は、この言葉を受け入れられない。

僕は自分よりいいねの多い人、フォロワーの多い人、正直、そういう人達を妬んでいる。

Twitterで、いいねの数が昔より減って、そのことが許せなくて、日に日に怒りの感情がメラメラ湧いてきて、きょうタイムラインに怒りを爆発させてしまった。

敗北を肯定できない。

「敗北主義」が負け犬の言い訳にしか聞こえない。

他者から承認されなければ、生きる意味のない人間と同じだ。そう思う。

「他人に最初から期待してない」って人も居る。「真の仲間だけいればいい」と思う人も居る。そりゃもちろんだ。

だが、それを「敗北主義」だと思ってしまう。

僕の人生は、かなりひどいもので。小学の頃はいじめられてたし、そこで植え付けられた悪感情が人格のベースになってしまって、愛情に飢えた人間になってしまったと自己批判する。

高校を中退して、ようやく見つけたTwitterというサイバースペースでも、他者との競争心が肥大し、2014年から19年までTwitterを辞めた。

その後は、高卒認定の勉強に没頭した。イラスト・漫画を描き始めた。映画や音楽を広く知ろうと毎週ミニシアターやライブハウスへ飛び込んだ。

この、はてなブログという「意識高い系」なブログサイトを始めたのもそうだ。

これらは他者とは違う自分でありたいという自尊心から生まれた行動だった。

「反敗北主義」のイデオローグに凝り固まっていたし、それは今この瞬間も変わってない。

Twitterでブロック・ミュートされた奴には狂犬がごとく噛みつかずにはいられない。

「負けてもいいよ!」が防衛機制から生まれた詭弁に聞こえる。

Twitterとは極端な世界だ。いいねの「YES」か、リムブロミュートの「NO」の2択に分かれる。

人間の感情をこの判断基準に狭めるTwitterは害悪だと思う。

しかし、僕は負けを認めたくない。どうしても、そこが変わらない。

「戦いに破れるとはこういうことだ!」

ガンダムランバ・ラルは、ガンダム相手に効果などあるはずもない火炎瓶を抱えて死んだ。敗者の美学をアムロにみせた。

逆襲のシャアにおける僕の独自研究だけど、アクシズ落下が不可避の状態で、全くもって無意味な「ガンダムアクシズを押し出す」という行為にアムロが至ったのは、ランバ・ラルと対峙した経験にあると思う。

この二人の行動は、紛れもない「反敗北主義」だ。が、同時に「美学」でもある。

命の最期まで負けを否定する「反敗北主義」。それはそう。

だけど美意識として見れば、それは子供じみたワガママ精神ではなく、もっと美しく、気高く、敗北を受け入れない、ブレないプライドを持つこと。

ランバ・ラルという男は、傲慢な人間ではなかった。ストイックだった。

女を連れ、アムロと食堂とのシーンで「出来るな坊主」とダンディズムを意識しているような、美学。

たぶん、ランバ・ラルは、とてつもなく挫折を味わい、屈辱を味わい、ダンディな男になったのだと思う。

マンガ蒼天航路には「心の闇」を持つ者が強い、みたいなことが描かれている。

男が身体を鍛えるのは、異性に魅力をアピールするのではなく、筋肉で心を鎧うのだ。

アメリカのバンド・レッド・ホット・チリ・ペッパーズは少なくともそう。

美学に殉ずる。

自ら切腹する武士道精神に近いもの。

かつて大日本帝国が、戦艦大和と神風特攻隊、そして未開発に終わった大型爆撃機 富嶽を利用するのに至ったのは、敗北を確信しても、敗者の美学を世界に見せつけることにあったのだと思う。

永遠の0とか、石原慎太郎の太平洋戦争の映画とか観て、僕はそう確信した。

ランバ・ラルの「反敗北主義」は、情けない姿を人に見せないところにある。

情けない姿を人に見せることは恥だ。真の敗北はそこにある。

シャアは逆シャアの時において、とにかく情けない姿を視聴者に見せた。

そしてアムロ大尉は官憲の一部としてことの処理に奔走した。情けない姿を見せずにロンド・ベルでできる仕事をした。

敗北に泣きわめくのは、もう終わりにしたいと思う。

ダンディズムに属したランバ・ラル。官憲の仕事に従事したアムロ大尉。

できるだけシャア総帥にならないことを、今後意識したいと思う。