「敗北主義」という言葉がある。
漫画ヘルシングを読んだ人ならたぶん言葉だけ知ってるであろう単語。
辞書の意味合いではこういう意味だ。
くだけて説明すりゃ。「負けてても良いんだよ!」に尽きてしまう意味。
僕は、この言葉を受け入れられない。
僕は自分よりいいねの多い人、フォロワーの多い人、正直、そういう人達を妬んでいる。
Twitterで、いいねの数が昔より減って、そのことが許せなくて、日に日に怒りの感情がメラメラ湧いてきて、きょうタイムラインに怒りを爆発させてしまった。
敗北を肯定できない。
「敗北主義」が負け犬の言い訳にしか聞こえない。
他者から承認されなければ、生きる意味のない人間と同じだ。そう思う。
「他人に最初から期待してない」って人も居る。「真の仲間だけいればいい」と思う人も居る。そりゃもちろんだ。
だが、それを「敗北主義」だと思ってしまう。
僕の人生は、かなりひどいもので。小学の頃はいじめられてたし、そこで植え付けられた悪感情が人格のベースになってしまって、愛情に飢えた人間になってしまったと自己批判する。
高校を中退して、ようやく見つけたTwitterというサイバースペースでも、他者との競争心が肥大し、2014年から19年までTwitterを辞めた。
その後は、高卒認定の勉強に没頭した。イラスト・漫画を描き始めた。映画や音楽を広く知ろうと毎週ミニシアターやライブハウスへ飛び込んだ。
この、はてなブログという「意識高い系」なブログサイトを始めたのもそうだ。
これらは他者とは違う自分でありたいという自尊心から生まれた行動だった。
「反敗北主義」のイデオローグに凝り固まっていたし、それは今この瞬間も変わってない。
Twitterでブロック・ミュートされた奴には狂犬がごとく噛みつかずにはいられない。
「負けてもいいよ!」が防衛機制から生まれた詭弁に聞こえる。
Twitterとは極端な世界だ。いいねの「YES」か、リムブロミュートの「NO」の2択に分かれる。
人間の感情をこの判断基準に狭めるTwitterは害悪だと思う。
しかし、僕は負けを認めたくない。どうしても、そこが変わらない。
「戦いに破れるとはこういうことだ!」
ガンダムのランバ・ラルは、ガンダム相手に効果などあるはずもない火炎瓶を抱えて死んだ。敗者の美学をアムロにみせた。
逆襲のシャアにおける僕の独自研究だけど、アクシズ落下が不可避の状態で、全くもって無意味な「ガンダムでアクシズを押し出す」という行為にアムロが至ったのは、ランバ・ラルと対峙した経験にあると思う。
この二人の行動は、紛れもない「反敗北主義」だ。が、同時に「美学」でもある。
命の最期まで負けを否定する「反敗北主義」。それはそう。
だけど美意識として見れば、それは子供じみたワガママ精神ではなく、もっと美しく、気高く、敗北を受け入れない、ブレないプライドを持つこと。
ランバ・ラルという男は、傲慢な人間ではなかった。ストイックだった。
女を連れ、アムロと食堂とのシーンで「出来るな坊主」とダンディズムを意識しているような、美学。
たぶん、ランバ・ラルは、とてつもなく挫折を味わい、屈辱を味わい、ダンディな男になったのだと思う。
マンガ蒼天航路には「心の闇」を持つ者が強い、みたいなことが描かれている。
男が身体を鍛えるのは、異性に魅力をアピールするのではなく、筋肉で心を鎧うのだ。
アメリカのバンド・レッド・ホット・チリ・ペッパーズは少なくともそう。
美学に殉ずる。
自ら切腹する武士道精神に近いもの。
かつて大日本帝国が、戦艦大和と神風特攻隊、そして未開発に終わった大型爆撃機 富嶽を利用するのに至ったのは、敗北を確信しても、敗者の美学を世界に見せつけることにあったのだと思う。
永遠の0とか、石原慎太郎の太平洋戦争の映画とか観て、僕はそう確信した。
ランバ・ラルの「反敗北主義」は、情けない姿を人に見せないところにある。
情けない姿を人に見せることは恥だ。真の敗北はそこにある。
シャアは逆シャアの時において、とにかく情けない姿を視聴者に見せた。
そしてアムロ大尉は官憲の一部としてことの処理に奔走した。情けない姿を見せずにロンド・ベルでできる仕事をした。
敗北に泣きわめくのは、もう終わりにしたいと思う。
ダンディズムに属したランバ・ラル。官憲の仕事に従事したアムロ大尉。
できるだけシャア総帥にならないことを、今後意識したいと思う。