大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

映画感想『CURE』黒沢清(1997)

まず、この映画は『ファイトクラブ』と同じ構造の映画である。

現代社会への閉塞感を暴力で打開する映画。

その根拠に、現代社会と相容れない人間の本能(村上龍『愛と幻想のファシズム』で云われているような現代社会によってパージされた人間の本能)を置く。

『CURE』は、前述のような あらすじで語り終えてしまう映画だ。

ファイトクラブ』や、本作が原型の伊藤計劃虐殺器官(原作/アニメ版)』のような、観客が推論してしまうようなギミックが、あるように見えて「無い」のだ。

ただ単純に、現代社会に封じ込まれた己の本能の衝動。ヒトのあるべき姿を、メフィストフェレスの間宮が暴いていく。それらを、この頃流行っていた『セブン』系ミステリふうに装い、ヒトコワ・ホラー映画のように列挙しているだけの映画だ。

この場合の映画は『プレデター』形式になる。

一度タネを知ってしまったら、二度目を観た時「プレデター」の正体に驚かない形式。

だが、決してそれは欠点ではない。

ギミックがない分シンプルに物語を理解しやすい。

役所広司の類まれなる演技力によって、現代社会と相容れない実存的な憤怒が痛感できるシーンが次々と提示される。

間宮は、社会にとらわれず気ままに生きるべきであることの象徴なだけで、催眠術など、ミステリの邪推要素でしかない。

続けて言うが、この映画は極めてシンプルな物語なのだ。日本映画、ならびに日本文学では、「ぼんやりとした不安」がバックボーンに居坐っている作品が多い。

しかし、不安の正体を明かしてくれる処方箋的作品は意外にも少ない。処方箋。つまり、CUREとは、「イライラしたときにファイトクラブを観たくなるような感情」への処方箋。と捉えられる映画なのだ。