大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

「ぼくらの」を一気読みして憔悴した

🤮

もう、しばらくすれば。2022年間。地球人類が連綿と紡いだ西暦のこよみに、一つ数字が刻まれる。傷跡のように、「2」にもう一角、「3」と。

ぼくはこの事実に耐えきれない。毎年こんなことを思いながら、布団でただ横たわる。

今年は特にひどくて、食事もサラダ半分ぐらいしか食べれなくて、免疫力低下で治らない口内炎に痛めつけられながらビタミン剤を飲んでいる。日の光が気持ち悪くて常にカーテンをしいている。


「この星の無数の塵の一つだと今の僕には理解できない」


連載当時。途中で追うの止めて、欠けてた単行本を買った。2008年頃だから、中学生の頃に読んでいたものだ。アニメは観てない。あらためて、巻末のトークでアニメ版は闇が深そうなのを知って観る気もない。

たまたまAmazonで新装版の表紙絵をみたのがきっかけ。なんか得体の知れない恐怖感を感じませんか?

ちょうど「なにもち」を再読してたこともあったけど、コレはお世辞にも、新キャラ登場から集中力が途切れてしまう…。

うーーーーーん。

なのに、「ぼくらの」はどうだろうか…。再び読んだら指が止まらない。

当時は飛び飛びで読んでたこともあったし、僕はあのころ鈍感だったから、それほど重く受け止めてなかった。

このメンタルで一気読みするのには重すぎた。

読中、読後に、猛烈な離人がおそいかかる。

およそ常人では発想しえない。15人+数名の、凄まじくリアリティのあるバックボーンと悲劇。

それらが緩みも絶え間もなく描かれるものだから、非常にクる。

鬼頭莫宏先生流の独特な描写方法で描かれた、構築美とも言うべき、このひとりひとりの物語を、マンガ業界にありがちな路線変更とかナシで、11巻貫き通せたのは凄い。を通り越して、怖い。

特に最終巻の決断には畏怖しかない。

(以下ネタバレ込)



しかしその反面。鬼頭莫宏先生の作品には、違和感もあるんです。偏った思想を押し付けられるような。

しかもそれらを正当化するすべに長けているのが、この「ぼくらの」なんですね。

なにせ完成(成熟)された説得力を持つ、「鬼頭莫宏先生流の独特な描写方法」というフォーマットに沿って描かれるものですから。


www.cmoa.jp


百聞は一見にしかず。公式立ち読みで。

他の漫画とは描き方が違うでしょう?

コマ割、緩急。というとすごく陳腐になるけど。そこも究極に完成されていて。人を物語のレールに乗せる「説得力」があります。

たいてい面白い漫画というものは、このような、「説得力」のあるフォーマットを持たなければ成立しません。

思いつくに、「ガンツ」とか「グラップラー刃牙」とか、内容の如何に関わらず、スラスラ読めるのは、説得力のあるフォーマットを有しているからです。

「ぼくらの」もそのうちの一つとして見事に成立しています。

とくに「ぼくらの」のすごいところは、こんな凄惨な内容に突飛なギャグ顔もいけてしまうキャラクターデザイン。

これから性的虐待を受けようとする(未遂に終わるんですが)シーンなのにこんな顔。

突飛なギャグをやらかして失敗するというのは、素人の漫画に必ずあります。僕が夏に描いた漫画もそのひとつです。だから見事だと思います。

構築美ともいうべき悲劇のシナリオに、このフォーマットが合致して、この漫画は加速度的に読者の指をすすめます。

しかし、それでも、完璧な漫画というものは存在しないのです。

作者が語りたくて仕方ない物語に「それは誘導だ」という読者の邪推が、しばし矛盾を生じさせるんです。

「ぼくらの」は、モジ編までの誘導がすごく上手いんです。

まず1巻から絶え間ない謎で「誘導」させ、4巻での、モジの死が、鮮やかな殉死のように見せる「誘導」。

あまりに完璧すぎるので、スラスラ読めてしまうんですが、子供らしくないとか、もっとまともな死の実感はないのかとか、ルールの後出しが卑怯とか、そういう屁理屈を構えてしまう。

なんか、この漫画の子どもたち全員が、一定の正義に属していて、それを見ているのが面白いと理解っている上で苦痛なんです。

「一定の正義」こそが鬼頭莫宏先生の語りたい「思想の偏り」なんです。

とくにハタガイ先生がキリエを説得させる言い方とか、それに対するキリエの受け止め方の偏りが、誘導的だと思いました。

だけどキリエのエピソードが一番おもしろいんですよね…。

あんま人のブログから引用したくはないんですが。ハタガイ先生とのくだりから、このシーンと、次のシーンでの決意が、ものすごく気に入ってます。


命を奪い合うなら礼儀が必要だ。

美学がないと、戦うことなんてできませんから。


そして、もうひとつ、この漫画が「誘導」させなかったのは。

肉体的痛みの表現。

アンコ編で。アンコの足が溶けるんですが、ゴア的表現を除いた痛みを描くことになんか失敗してる気がしますね。

それ以降、コックピットまで攻撃が入る恐怖を感じるんですが、痛覚が読者と共有されないような感覚を覚えます。

カンジ編で痛みを語るのに、やはり痛覚を共有できないのか…。

あとは、最後の畳ませ方とか色々言いたいんですが、「誘導」しきれてない面もあげられるんです。この作品。

それは、作者の「思想の偏り」が、読者とラジカルすぎる乖離を引き起こしているんだと思います。

・・・・・・・・・・・



読んで、思いを馳せながら一晩寝て、記事を書いたんですが。言いたいことはこれくらいです。

とにかく面白く、なおかつメンタルが削られるので、精神状態が善いときの読書をおすすめします。

Twitterと敗北主義 ランバ・ラルとアムロ・レイと僕

「敗北主義」という言葉がある。

漫画ヘルシングを読んだ人ならたぶん言葉だけ知ってるであろう単語。

敗北主義とは - コトバンク

辞書の意味合いではこういう意味だ。

くだけて説明すりゃ。「負けてても良いんだよ!」に尽きてしまう意味。

僕は、この言葉を受け入れられない。

僕は自分よりいいねの多い人、フォロワーの多い人、正直、そういう人達を妬んでいる。

Twitterで、いいねの数が昔より減って、そのことが許せなくて、日に日に怒りの感情がメラメラ湧いてきて、きょうタイムラインに怒りを爆発させてしまった。

敗北を肯定できない。

「敗北主義」が負け犬の言い訳にしか聞こえない。

他者から承認されなければ、生きる意味のない人間と同じだ。そう思う。

「他人に最初から期待してない」って人も居る。「真の仲間だけいればいい」と思う人も居る。そりゃもちろんだ。

だが、それを「敗北主義」だと思ってしまう。

僕の人生は、かなりひどいもので。小学の頃はいじめられてたし、そこで植え付けられた悪感情が人格のベースになってしまって、愛情に飢えた人間になってしまったと自己批判する。

高校を中退して、ようやく見つけたTwitterというサイバースペースでも、他者との競争心が肥大し、2014年から19年までTwitterを辞めた。

その後は、高卒認定の勉強に没頭した。イラスト・漫画を描き始めた。映画や音楽を広く知ろうと毎週ミニシアターやライブハウスへ飛び込んだ。

この、はてなブログという「意識高い系」なブログサイトを始めたのもそうだ。

これらは他者とは違う自分でありたいという自尊心から生まれた行動だった。

「反敗北主義」のイデオローグに凝り固まっていたし、それは今この瞬間も変わってない。

Twitterでブロック・ミュートされた奴には狂犬がごとく噛みつかずにはいられない。

「負けてもいいよ!」が防衛機制から生まれた詭弁に聞こえる。

Twitterとは極端な世界だ。いいねの「YES」か、リムブロミュートの「NO」の2択に分かれる。

人間の感情をこの判断基準に狭めるTwitterは害悪だと思う。

しかし、僕は負けを認めたくない。どうしても、そこが変わらない。

「戦いに破れるとはこういうことだ!」

ガンダムランバ・ラルは、ガンダム相手に効果などあるはずもない火炎瓶を抱えて死んだ。敗者の美学をアムロにみせた。

逆襲のシャアにおける僕の独自研究だけど、アクシズ落下が不可避の状態で、全くもって無意味な「ガンダムアクシズを押し出す」という行為にアムロが至ったのは、ランバ・ラルと対峙した経験にあると思う。

この二人の行動は、紛れもない「反敗北主義」だ。が、同時に「美学」でもある。

命の最期まで負けを否定する「反敗北主義」。それはそう。

だけど美意識として見れば、それは子供じみたワガママ精神ではなく、もっと美しく、気高く、敗北を受け入れない、ブレないプライドを持つこと。

ランバ・ラルという男は、傲慢な人間ではなかった。ストイックだった。

女を連れ、アムロと食堂とのシーンで「出来るな坊主」とダンディズムを意識しているような、美学。

たぶん、ランバ・ラルは、とてつもなく挫折を味わい、屈辱を味わい、ダンディな男になったのだと思う。

マンガ蒼天航路には「心の闇」を持つ者が強い、みたいなことが描かれている。

男が身体を鍛えるのは、異性に魅力をアピールするのではなく、筋肉で心を鎧うのだ。

アメリカのバンド・レッド・ホット・チリ・ペッパーズは少なくともそう。

美学に殉ずる。

自ら切腹する武士道精神に近いもの。

かつて大日本帝国が、戦艦大和と神風特攻隊、そして未開発に終わった大型爆撃機 富嶽を利用するのに至ったのは、敗北を確信しても、敗者の美学を世界に見せつけることにあったのだと思う。

永遠の0とか、石原慎太郎の太平洋戦争の映画とか観て、僕はそう確信した。

ランバ・ラルの「反敗北主義」は、情けない姿を人に見せないところにある。

情けない姿を人に見せることは恥だ。真の敗北はそこにある。

シャアは逆シャアの時において、とにかく情けない姿を視聴者に見せた。

そしてアムロ大尉は官憲の一部としてことの処理に奔走した。情けない姿を見せずにロンド・ベルでできる仕事をした。

敗北に泣きわめくのは、もう終わりにしたいと思う。

ダンディズムに属したランバ・ラル。官憲の仕事に従事したアムロ大尉。

できるだけシャア総帥にならないことを、今後意識したいと思う。

『ぼっち・ざ・ろっく!』。音楽業界のロシア・ウクライナ戦争。帝国とマルチチュード。について。

日本時間2022年11月29日現在。

2022年2月24日(その前からうすうす予感が脳裏に走っていたが)ロシアによるウクライナ侵攻が始まり、僕は今年、趣味のロックバンドDIG収集にやる気が薄れた。

それは、2020年コロナ上陸当時のコロナによる世間の異常な空騒ぎの時もそうだった。

僕は、リアルタイムに発信される音楽藝術、生活を写したロックミュージックに、そのジャンルや歌の傾向から「時代」というものを見出そうと思っていた人間だったからだ。

だけど、今回の戦争とコロナが違うと言える点は、コロナは我々の日常社会とゼロ距離で密接している問題であり。戦争は少なくともテレビ越しスマホ越しという距離の問題がある。

今思い返すと、コロナショック当時、アーティストたちのことを考えて、「この人達もコロナの中、バンドの仕事も危うくなってるけど、それでもライブを演ってんだな」と思えるようになった。

それに、ライブのMCや、ステイホーム運動に連動したサブスク解禁や、CDが流通しないからyoutubeに一定間公開するだとか。そしてTwitterにインスタのような、生活に密接したメディアを通じてコロナ禍のミュージシャンの心の渦中を発信するとかで、彼らの裡を知り、コロナ禍の中に呑気なラブソングを歌うバンドをチャラいとかは思わなくなった。コロナ厭戦ムードの現状もあるかもしれないが。

彼らは新型コロナウイルスに直接的打撃を与えられた存在だ。

彼らの多くが作る2020年以降のラブソングは、コロナの空気感とシンクロしていると思う。

東京のどこかのスタジオで、マスクで機材搬入しレコーディング。感染拡大を止めるために必死でライブハウスはカンパを求め、マスクを付けた観客の顔を直視して音楽を演る。

Spotifyで検索すれば面白いほどコロナの音楽(UVERworldを除く)が検索される笑 コロナ禍の歌だったら、THE BLUE HARBの「2020」、eastern youthの「2020」、秋田ひろむ「令和二年」が好きですね

Spotify – Web Player


だけど、ロシアによるウクライナ侵攻は違う。海の向こうで戦争が始まる。

僕の聴いている音楽圏―インディーロックとメジャー洋楽、にはロシアへの反戦のアティテュードが、なかった。

洋楽から話そう。

もちろん、U2の支援チャリティーライブや、ピンクフロイドのチャリティーアルバムが出たことは知っている。

しかし、それらはツウな人しか知らない情報だ。探れば、海外アーティストではこのような活動を行っている人は多いかもしれない。

だけど、朝のニュース番組には取り上げられないし、音楽情報サイトでメジャーな記事にはならない。

インディーネイティブhttps://www.indienative.com/で洋楽インディーシーンの動向を探っているけれど、まだ小規模のグループにも、ウクライナのことはあまり関心がないように感じる。

日本人アーティストにしろ外国人アーティストにしろ、ウクライナ問題へのアプローチはコロナ禍より極めて困難だ。

「それは政治的な意図があるから、政治には触れない方がいい。」という腑抜けた物言いからなのか。

じゃあなぜ、かつてのアメリカの政治を大批判して、合衆国の国旗を逆さに飾った、デッド・ケネディーズとか、ブラック・フラッグとか、バッド・レリジョンとか、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンとか、グリーン・デイアメリカン・イディオットとかがあったんだ?

日本の話だが、イラク戦争当時。向井秀徳氏によれば「音楽に政治を持ち込まない」と長々と回答していたそうだ。

それは逆説的に「向井秀徳さんはイラク戦争反戦ソングをやらないんですか。やるべきですよ。」と、日本の有名ロッカーに対する期待があったのだと感じる。(あのあたりの時代のロッキングオンとかは私は知らない世代なので、この行はあくまで推測。ただそういうやり取りがあったのは確か)。

あの頃のカウンターカルチャー界における反戦運動は、『帝国とマルチチュード』に集約される。

簡単に言えば、アメリカという超大国の戦争に対して民草が社会運動するようなものだ。

ゆえに当時、この本はヒットしたそうな。

イラク戦争時のアメリカ人たちは、「戦争を始めることによって自国が堕した」という音楽を作っていた。反戦ソングをあげると枚挙にいとまがない。

だが、今のアメリカ人はロシアを批難しない。それは、東側や西側の意図のどちらが正しいのか分からないから、ではないと思う。

なぜなら、西側諸国に住んでいる、アメリカ人もイギリス人も日本人も、『<帝国>とマルチチュード』の関係にあるからだ。

『<帝国>とマルチチュード』は、アメリカ、そしてグローバリズムの<帝国>に対して、無力なプロレタリアートのような存在たち―マルチチュード―に人間を区分した一説だ。

西側諸国が覇権を取り、世界のグローバル化が進んで、西側資本主義のイデオロギーが増長するという<帝国>。

そして、そのグローバリズムは、国民と国家の違いがあると述べた思想だ。

しかし、今回のロシアとウクライナの戦争は、どうも東側諸国の旧ソ連内ゲバに見えてしまう。

テレビではワイドショーでプーチンの蛮行を批難する形式がスタンダード。開戦当初からNHK BSの海外ニュースメディアの映像も観ていたので、西側世界的にも反プーチンというスタンスが、現在世論において支配的であると思う。

しかし、我々はロシアとウクライナの傘下。つまり、東側諸国に、居ない。

我々西側諸国民は、この戦争が何を理由として開戦したのか分からない。「極右政権から自国への攻撃を恐れた先制攻撃」「民族のレコンキスタ運動」「穀物資源の簒奪」etc...分かりやすく説明されても、それで納得はできない。

確かにロシアを批難するのも簡単だ。だが、もっとラジカルに考えると、例えば自分が作曲するときに、ウクライナは被害者だけどロシア兵も被害者で、戦闘指揮官プーチンとゼレンスキーをどう書いて歌い上げるのか、どうしようもできないはずであろう。

よって、世界中のミュージシャン、アーティスト、芸術家、子供からオタク層まで受け入れる作品の作り手の多くが、沈黙せざるを得なかった。

そして悲しくも、『<帝国>とマルチチュード』は、現代社会に通用できなくなった言説ということになる。

非対称戦争、対テロ戦争、世界内戦の時代が21世紀のスタンダードになるかと思いきや、そうはならなかった。少なくともプーチンの頭の中は20世紀だった。そして戦争は20世紀から変わらないものだったと初めて分からせられた。メタルギアソリッドふうに言えば「戦争は変わらなかった。」

僕は、ウクライナが攻撃されてから、呑気なラブソングなんぞ聴く意味あるのかと、正直なところ、そう思ってしまった。

だから僕は、戦争を題材にしている、「ガンダム」や「マクロス」や「ストライクウィッチーズ」のオタク系アニソンを聴きまくってた。

だって、ソッチのほうが明らかにリアルじゃないか。僕は西海岸パンク生まれヒップホップ育ちなので、フェイクを嫌う。

では、現在日本人アーティストは何を歌っているのかにハナシを移す。

日本人のメジャーもインディーも、みんなやっぱりラブソングだった。

歌詞から「きみ」という文字が消えることはなかった。

アメリカのハードコアで政治的な曲なら、苛烈に「おまえ」と歌うところで、「きみ」を歌うしか無かった。

そして、戦争的なニュアンスが入った楽曲を紹介すると

リーガルリリーさんの『恋と戦争』

このアルバムは、バッド・レリジョン的な苛烈な現代批評ではない。

僕の敬愛するバッド・レリジョンが93年に西海岸でリリースしたCD。そのうちの『アメリカン・ジーザス』

話がそれてしまうけど、世界的なエンタメでは、やけに「アメリカン○○」という作品が多い。映画だとアメリカンスナイパーとかアメリカンサイコとかアメリカンヒストリーXとか。

それだけアメリカは世界の中心であったはずなのだ。しかし、バイデン政権になれば世界はフラットになってしまった(僕はトランプ派ではない)。

かくして、アメリカなきグローバリズムでは、古い言葉を使うが「大きな物語」が完全に抹消されており、「小さな物語」の時代に本格的突入したのだと思う。

それもそう。ロシアとウクライナの戦争も、「小競り合い」という見方もできるだろう。そんな、自分の知らない離れた国の小競り合いに、日本人は四六時中かまっていられない。ニュースで今のトレンドは統一教会だそうで。

そのようにして、「大きな物語はなかった」とよく云われる言説が、さらに加速し、さっきのリーガルリリーの曲のように「恋」と戦争の話になってしまうのだ。

やっぱり「君と僕」の時代はビートルズのYesterdayから続く。戦後の日常は終わらないし、東西冷戦もまだ集結していないと僕は思う。中国も巨大な国だ。

コロナウイルス蔓延で宮台真司は加速主義者になったし、今人気者のひろゆきも加速主義者だし、事実、新しい生活様式に変えられた我々の社会も「変化」という「加速」をさせられた(主に在宅ワークやウーバーイーツやメタバースなど)。

ちなみにまた余談になってしまうが、私が信頼している評論家の宇野常寛先生(リツイートと反応してくれてありがとうございます。)の『砂漠と異人たち』という本は面白いよ。

戻す。興味深いケースに、バットマンを挙げようか。

結構こないだ前に公開された『ザ・バットマン』は、明らかにQアノンをメタファーに用いたヴィランを用意していた。しかし、Qたちは世界を変えるわけでもなく、バットマンに倒され、ふつうに終わってしまう。

2019年ジョーカーやダークナイトに反して、風刺をしているようで風刺が出来ていなかった映画だ。なぜなら、世界の問題の渦中にあるQアノンはひどく荒唐無稽だからだ。「地球平面説」なんていう連中と、まともに取り合うなど話にならない。

この映画は、ダークナイトで説かれた「大きな物語」ではなく、「大きな物語を描こうとしたけど小さな物語を描かざるを得なかった映画」になったのだ。

なぜか。Qアノンも「小さな物語」の中を生きているからだ。トランプは小さな物語で票田を獲得しただけにすぎず、それはアメリカの意志ではなかったと、さきの大統領選挙でバイデン政権が発足したことから分かる。

音楽というものは時代を映す。だが、今年の邦楽はなんだかイヤな感じだった。世界問題から逃げるしかない極めて合理的な理由はある。あるのだが、その物足りなさに頭をひねる。

そこで、アニメ界から現れたのが、『連盟空軍航空魔法音楽隊ルミナスウィッチーズ』だ。

別にふざけているわけじゃない。これは本当に「時代に合わせてきた」偶然の一致としては出来上がりすぎてるほど完成度の高い作品だった。

第二次世界大戦をモチーフにした世界観で、世界中の部隊が集められ、戦わないで、歌を歌う部隊の主人公たち。彼女らが、戦争というものに直面しながら歌をうたう道を選んでいく、極めて真摯なストーリー。

そして、そのOP曲が、最高に良い。


welcome to the wonderful world luminous

この世界はワンダフルなんだ。
そこがいいんだ。

直球である。そしてこの直球を、少なくともプーチンの頭に投げつけてやりたい。

まさに現代世界をドストレートに風刺できた歌だったと思う。素晴らしい!!!

そして、『ぼっち・ざ・ろっく!』という作品だ。

『ぼっち・ざ・ろっく!』は、読者層の心を鷲掴みにする魅力を盛っている。

厭世的な主人公に、感情移入してしまう。

それはよいとして、音楽性はどうか。

その音楽は、東京に住む一人の孤独な少女のリアルな心情のリリックだった。

確かに、好きなバンドが楽曲提供してるけど、音楽面においては私の愛した いにしえ の『けいおん!』より何手も落ちてしまうように感じ取れてしまう。それは多分僕の耳が老けたせいだろうか。

だが、捉え方を変えると、手落ちではなく、2022年現在の音楽性を見事に引き出しているといえる。

変拍子のリズムに超うまい演奏。そして、最も2022年のトレンドを撃ち抜く一曲一曲。

「リアルさ」と「トレンディさ」を、見事に両立している。

チェーンソーマンでいうと、マキシマム・ザ・ホルモンは中学生の頃から大好きだが、チェンソーマンにマキシマム・ザ・ホルモンは、今の日本の音楽シーンにホルモン並のキワモノがいないんだという事実を突きつけられているようだ。

マキシマム・ザ・ホルモンは僕の人格形成のひとつにある。超重要バンドです。)

リーガルリリーのくだりじゃないけど、あくまで、小さな物語に生きるしかないのが我々令和人間だ。

しかし、前記事にあるとおり、『けいおん!』の頃は、情熱にあふれていた時代だった。

浅羽通明『ものぐさ精神分析』的な、日本人の精神分析をすると、『けいおん!』の時代は未来に展望があった。震災が起こる前。民主党に「一度任せてみよう」の号令のもとに成り立った民主党政権東京スカイツリーの建設。お台場ガンダムの建設。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』で観た、青空のもとエヴァンゲリオンが健康的に全力疾走し、最後はシンジが綾波を助けるという全くもって明るい筋書き。

たしかに2009年のリアルと、2022年のリアルは違うかもしれない。

しかし、それを良いと悪いで区別することは僕は絶対にしない。それでも僕は明日が欲しい。

と、いうわけで、『ぼっち・ざ・ろっく!』は令和の音楽アニメ・漫画として大ヒットを記録している。

CDも、タワーレコードで僕は買った。サブスクにあるけど、サブスクにあるものが全てじゃない。実際に手を取ってCDのドーナッツをレコーダーに加えて再生する。これぞ音楽の醍醐味だ。

そして、買うということはその年に起こった記念物を所持するということだ。

さて、やはり自分の耳が老けたを言い訳にせず、ちゃんとこの『結束バンド』というバンドを聴こうか。

アニメ漫画におけるフーコー

まず開口一番に話したいのは『ガンダムUC』です。個人的にガンダムシリーズで結構好きです。かなり強度のある話だと思ってます。

めっちゃ拾い画像で申し訳ないんすが、これはラディカルな社会学の真意を突いている台詞だと思います。

スペースノイドアースノイドとの軋轢は、当初は地球環境を守るため、人類を宇宙に上げた善意から始まっていると、ダイナーの主人は語っています。

そしてジンネマンは、善意が生んでしまった軋轢に苦しむ男です。このジンネマンの台詞はEP4すべてを集約する言葉でしょう。

コードギアス』のルルーシュ・ヴィ・ブリタニアも同じ軋轢を見てきました。



ルルーシュ「皇帝シャルルは『昨日』を求めた。 あなたは『今日』を。だが俺は、『明日』が欲しい」

シュナイゼル「明日は今日より悪くなるかもしれない」

ルルーシュ「いいや、良くなる。例えどれだけ時間がかかろうとも、人は幸せを求め続けるから」

ルルーシュ「俺は何度も見てきた。不幸に抗う人を。未来を求める人を。みんなが幸せを願い、抗い続けた」

ルルーシュは、当初は母の仇と、弱者のためと、ナナリーの求める優しい世界を作る、という簡単な動機で行動を起こしていたんですが、何度も打ちのめされ、逆境に合い、薬物中毒者になりかけたり、無差別殺人テロを自分勝手な理由で行ったり、ものすごい情緒不安定になるくらい打ちのめされて、この考え方にたどり着きました。

えてして、コードギアスを超展開とか、全員クズとか、キャラがAパートに言ったことをBパートで忘れるみたいな批判を見ますが、だとしても谷口監督と大河内シリーズ構成も何か芯のある―ラディカルな―一本調子の信念を抱いて描いた作品だと僕は思ってます。

それはさておき、現代の人類は不当な暴力をしてはいけません。これはフーコー的に言えば「生政府」、生きる事が尊重された世界が最もまっとうであるという世界観です。

ゆえに現代ではテロ行為という無法をしてはいけません。

ルルーシュも、最期はフーコー的に平定された議論のテーブルに世界を付かす目的で殉教しました。それがたとえ中二病的ナルシズムだとしても。

PSYCHO-PASS』では常守朱も第一話から様々な事件に関わって、終盤、彼女なりの、無法でない「法」のありかたを見つけました。

友達を殺められ、何度も敵・槙島聖護を殺すタイミングがあったけど、槙島聖護を、無法のもとでは殺せなかった常守朱

独白のシーンを重ねながら、彼女は最終回、一つの信念を見出しました。


「法が人を守るんじゃ無い。人が法を守るんです」

「これまで、悪を憎んで正しい生き方を探し求めてきた人々の思いが、その積み重ねが法なんです」

「それは、条文でもシステムでも無い、誰もが心の中に抱えてる、もろくてかけがえのない思いです」

「怒りや憎しみの力に比べたら、どうしようもなく簡単に壊れてしまうものなんです」

「だから、よりよい世界を創ろうとした、過去全ての人達の祈りを、無意味にしてしまわないために」

「それは最後まで、頑張って守り通さなきゃいけないんです。諦めちゃいけないんです」

第二期でも常守はこの信念のもとに犯罪と戦っています。

しかし、ここで立ちはだかってくる漫画があります。

鬼頭莫宏先生の『なるたる』と『なにかもちがってますか』です。




『なにもち』のイッサくんはショタカワイイところもあって好きです。

主に鬼頭莫宏作品では、ルールを守れない人間は悪だと断定しています。

一番上の漫画の『なるたる』では、ゴミをポイ捨てしただけの人たちを須藤直角くんが銃で射殺して警察に取り調べを受けていたシーンです。

PSYCHO-PASSの台詞と、鬼頭莫宏作品の台詞を比べると、どちらも一理あるように見えますね。

どちらもガンダムUCの「善意」的なものから始まっていると思ってます。軋轢です。

「越えてはいけないライン」を穏やかに諭すのが常守で、真っ先にラインを超えた奴は殺していくのが須藤やイッサくんの考え。

ゆえに、常守は、上述の信念を持ってしても、1期最終回ラストシーンで、かたき である槙島聖護を殺す狡噛慎也を止めることはできませんでした。

きっぱり言えば常守朱は、須藤直角を殺せません。それは違法だからという絶対的根拠に常守は置かれているからです。

須藤直角は、自分が人を殺してまでルールの違反者を殺したのに、「竜の子」というスタンド能力で警察よりも強い武力を持っているのですから、開き直ります。

警察にも、「君も同じじゃないか」と言われたにもかかわらずです。

それでは、より強い武力を持つものが正しいという法になってしまうことになります。

かつてアメリカ合衆国は「世界の警察」でした。強い者がルールを作ると。しかし今年初頭に、アメリカ軍はアフガンから撤退しました。そして現在ロシアとウクライナは「どっちが強いのか」で正義を比べ合いっ子しています。

ジョジョ』では、こういう正義も一理ある。と考えられているのでしょう。私利私欲を悪として、「吐き気を催す邪悪」を描いていた荒木飛呂彦が、7部で「漆黒の意志」を描いていたように。

そして、『沈黙の艦隊』という漫画。

かわぐちかいじ先生のミリタリー作品は、必ず「専守防衛」という言葉が出てきます。

そして、これを譲ってはいけないと考えてます。

9条論議でもありますが。ある意味、そういう考え方は、武士道やプライド、矜持に近い考え方なんだと思います。自分たちの国がそう言い続けるからそう言い続ける。

それは「美学」の問題なのでしょう。

しかし、美学を訴えた三島由紀夫は討ち死にしてしまいました。

やはり力…力こそ正義なのでは………

力を持つ人間が、このようなフーコー的な考えに到達できれば、一番よいのですがね。

しかし、改革者である『ガンダムUC』におけるフル・フロンタルは暖かさのない虚無を持ち、『PSYCHO-PASS』のシビュラシステムには、「従うに値しない法を作ることが悪」と言ってもせせら笑われました。

globe.asahi.com

このような問題を取り扱った『銀河英雄伝説』については、一方的にブロックされたフォロワーが好きなものなので、中学の時に読んで以降、再読できずに居ます。ふざけんじゃねえよ。なので記事のみで割愛します。

長々と話した記事になってしまったのですが、アニメ漫画フィクションにおける善悪のありかたを覚え書きしたかったので書きました。

常守朱の正義や、専守防衛というルールを守ること(9条が善なのか悪なのかを問わず、ルールだから守る)というのは、あながち間違っていません。

しかし、それで殺される可能性もあるわけです。難しいですね。でも三島みたいに切腹するのも美徳というか…。

最後はこの男、アムロ・レイ大尉で締めましょう。


「世直しのことを知らないんだな、
革命はいつもインテリが始めるが夢みたいな目標をもってやるから、
いつも過激なことしかやらない
しかし、革命の後では気高い革命の心
だって官僚主義と大衆に呑み込まれていくから
インテリはそれを嫌って世間からも政治からも身を引いて世捨て人になる だったら・・・」

この台詞、現状維持するしかない諦観が入ってると思うですよね。その諦観はシニカルなものではなく、自分なりの根拠に根ざした正義感として感じられます。

『けいおん!』『ぼっち・ざ・ろっく!』「きららアニメ」「難民枠」に関する私論。


ときに、西暦2013年。

アニメ『ゆゆ式』から『きんいろモザイク』への潮流を起点に、「きららアニメ」というジャンルは確たるものになった。

キャラクターのゆるふわな日常が描かれることが特徴の、「難民枠」。あるいは「空気系」とも言えるジャンルだ。

このジャンルのアニメは、2013年以降のアニメ史において、金字塔とも言うべき成長を果たす。

2013年春に放送された『ゆゆ式』は、独特な雰囲気をまとい、観終えた者に強い喪失感を与え、―いわゆる○○ロス―「難民」の誕生を呼んだ。

「難民」は、夏の『きんモザ』に流れ。秋の『のんのんびより』。14年冬の『未確認で進行形』。または『桜Trick』。または『幸腹グラフィティ』。そして難民たちが流れ着いた14年春の『ご注文はうさぎですか?』をレプリゼントとして、確固たる金字塔ジャンルを築く運びとなった。

ここで面白いのは、『のんのんびより』は「まんがタイムきらら」作品ではないし、『未確認~』も雑誌が別な上 物語に男性が関与したり、『桜Trick』に関してはガールズラブ要素が濃厚な作品であったが、ただ、13年と14年を股にかけたこの一年で、「このような雰囲気のアニメ」が定着したことは分かるだろう。

ひるがえって、時を2009年に戻す。

この年に、「きららアニメ」の萌芽のひとつにして、「このような雰囲気のアニメ」の原点ともすべきアニメ。『けいおん!』が放送された。

私がリアルタイムで体感した『けいおん!』は、放送前情報から何やら新しい「雰囲気」を感じ、友人に「このアニメ面白そうじゃね。今夜第一話やるみたいよ。」とメールしたのをはっきりと覚えている。

けいおん!』は、女子高生5人のクローズド・サークルで、ゆるふわな日常を描く作品である(厳密には、私はこのアニメを「ゆるふわ&最終回は少女の成長譚」とみてるのだが)。

似ているが、『らきすた』や『みなみけ』、もっと遡れば『あずまんが大王』とも決定的に違う。全く新しいジャンルのアニメの出産であった。

そして、『けいおん!』は爆発的にヒットした。

まんがタイムきらら」という雑誌が一躍有名になった(コアなファンは『ひだまりスケッチ』でとっくに知っていたであろうが)。

CDは、当時珍しいオリコンチャートにアニソンが食い込むというイレギュラーを起こすほど売れに売れた。

登場人物が持つ音楽機材も楽器屋から飛ぶように売れた。

音楽を始めるファンが急増した。

登場人物が持っているシャーペンやらヘッドホンやらを特定し、その購買が奔走した。

学校の給食の時間やら学園祭やらで音楽を奏でただの、若年者にもファンを作った。

聖地巡礼ブームの先駆けとなった。 ロンドンまで遠征するものも普通に居た。

マーティー・フリードマンがレコメンドした。サブカル評論家たちに重要視された。登場人物・田井中律が好きな「ザ・フー」をはじめとしたイギリスのロックが聴かれるようになった。SCANDALというバンドが便乗的にカバーして有名になった。放送の次のクールに『大正野球娘。』『かなめも』『GA』『宙のまにまに』といった部活ものが流行った。10年放送の『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』絵面がオマージュのように類似した。「京アニクオリティ」へ大いに貢献した。70年代のヤマト80年代のガンダム90年代のエヴァ00年代のけいおん!と捉える傾向が起こった。黒髪ロングブームと茶髪ボブカットブームが起きた。2ちゃんねるではSSを投稿するものが増えた。『まどマギ』と比較された。まとめアフィリエイトブログがこぞって御輿を担いだ。「美少女動物園」なる言葉が出来上がった。etc…etc…etc…

これは、もう、間違いのない社会現象が巻き起こったのである。
これら『けいおん!』の高揚は、隔世遺伝的に、『日常』。『ゆるゆり』。『たまゆら』に波及し、先の『ゆゆ式以降』に影響を与えたのは明白な事実であろう。

それらを経て、いま現在。2022年。

「このような雰囲気のアニメ」の歴史は、情熱のキャタピラが止まらず、いまだ終わらず、連綿と受け継がれている。

今クールは『ぼっち・ざ・ろっく!』が好評放送中である。それとシノギを削っている「このような雰囲気のアニメ」も何作かある。

『Do It Yourself!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-』と、『ヤマノススメ Next Summit』だ(奇しくも『ヤマノススメ』は『ゆゆ式』の前クールに放送され、大器晩成で人気になったアニメ。)

さて、『けいおん!』から13年以上の時代が流れ、視えた景色はなんだろう。

話を『ごちうさ』の時代まで戻すようだが、途方もない作品たちが「金字塔」にこぞって上り詰めていった。

余談だが、まんがタイムきらら作品のオールスターを集めたソシャゲ『きららファンタジア』はサービス終了を告げたのだが…。

それはもう、広がった樹形図のように、幾何学的に、カレイドスコープを覗くように、アニメーションたちのそれぞれのスタイルが醸成されていくような景色。

みながそれぞれ違っていた。演出に懸けるもの。作画に懸けるもの。声優に乗っかるもの。メディアミックス展開を行うもの。

そして、スタイル・ウォーズは止まらない。

今期の傾向をみるに、『ぼざろ』『DIY』『ヤマノススメNS』は「くだけた演出と作画」で勝負している。

どれも違って、どれも善い。 これが22年秋の世界観だ。

だが、13年半前の『けいおん!』旋風と、同じ「きららのロック漫画」で同調した『ぼちろ』のムードは、何かが違うと思わされる。

けいおん!』は、与えられるものを感受するだけではなく、上述でダラダラと述べたとおり、各々が自発的にブームを仕掛けたきらいがあった。

そして私は思う。

「『ぼっち・ざ・ろっく!』ファン、作品は色んな音楽をサンプリングしているのに、与えられるものを感受しているだけで、自発的に何かを起こしてなくね!?」

なぜだろう………Twitterのタイムラインで流れてくるものは、結束バンドたちのイラストぐらいで、誰も原作でオマージュされているビッグバンド クリープハイプフレデリックKANA-BOONを聴かない。
タイムラインのひとたちはチェンソーマンのEDには興味を示す割に、楽曲提供をしている音羽氏やビッグネーム、KANA-BOON谷口鮪氏やtricot中嶋イッキュウ氏の音楽に触れない。ディグらない。舞台探訪特番をやったのにも関わらず下北沢SHELTERに行かない。ぼっちちゃんが持つ、黒いレスポールが売れるブームに至らない。

私が過剰にロックバンド好きであるからなのか…この空気感の溝が、『けいおん!』当時を知るものとして、タンパクなものに感じてしまう。

私は『ぼっち・ざ・ろっく!』が好きだし、昨今の音楽業界のロックバンドの冬の時代の中、アニソン発ロックバンドとして大ヒットを望んだ『ぼっち・ざ・ろっく!』の門出を大いに祝った。

だが、君ら、ファンら、ヘッズら、リスナーら、力が足りないんじゃないか!?

これは邦楽を演っている人たちのTwitterを観ても明らかに目をつけられてないし、当然のごとくアニメファンたちはKANA-BOONのカの字すら興味を示さない。

うーん。これは考えものでしょうな…。

とにかく。なにかアニメファンの動きがとてつもなくタンパクになってしまったのは確かだと思う。

けいおん!』ブームも、「難民枠」ブームも、それぞれが自発的に動いていた。

少なくとも昨今はかすかな希望はある。「リコリコ難民」が「ガンダム水星の魔女」に移った現象はある。

だけど、「このような雰囲気のアニメ」を愛好するアニメファンたちの、情熱のキャタピラは、過去と何かが違う。我々は、いったいどこに向かうのだろうか。

『秒速5センチメートル』における『one more time one more chance』新説


僕は秒速5センチメートルを何度観ただろうか。 実際パトレイバー2に匹敵するほど、超ヘヴィーで観ているのは確かだ。

もはやポエム台詞ひとつひとつがオルガ・イツカの詠唱のように聞こえる。

ここでは小説版の話は加えない。映画逆シャアでベルチルの話をする人はいない。

ということで、秒速についてものすごい暴論を思いついた。これは多分俺しか思ってない新説です。


『one more time one more chance』の歌詞中の「君」とは、過去の貴樹自身のことである。


3章。クライマックスにて、遠野貴樹が「会社を辞めた。」とモノローグで語り、コンビニに入り、店内BGMで『one more~』が流れるシーケンス。

「この数年間、とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて、それが具体的に何を指すのかも、ほとんど脅迫的とも言えるようなその想いがどこから湧いてくるのかも分からずに、僕はただ働き続け、気づけば日々弾力を失っていく心がひたすらつらかった。そしてある朝、かつてあれほどまでに真剣で切実だった想いがきれいに失われていることに僕は気づき、もう限界だと知った時、会社を辞めた。」

このモノローグで重要なのは、「かつてあれほどまでに真剣で切実だった想い」の部分。

「真剣で切実だった想い」とは何か。

このシーンの直前では、貴樹が3年間付き合っていた女性(水野理紗)との悲恋で落胆するシーンが置かれており、コンビニに入って、明里との交差するモノローグ(「昨日夢を見た~」)が入るゆえに、あたかも貴樹が恋愛のみについて思い悩み、「真剣で切実だった想い」を「恋愛」とイコールするように感じ取れてしまうが、貴樹は、決して“恋愛のみ”を考えているわけではない。

それは、貴樹がふと立ち読みコーナーの宇宙探査衛星の雑誌を手に取る部分で分かる。

2章で、貴樹は同じく宇宙探査衛星の雑誌を読んでいる。人工衛星の孤独を自分の孤独と重ね合わせている。

「それは本当に、想像を絶するくらい孤独な旅であるはずだ。本当の暗闇の中を、ただひたむきに、1つの水素原子にさえ滅多に出会うことなく、ただただ深遠にあるはずと信じる世界の秘密に近づきたい一心で。僕たちはそうやって、どこまで行くのだろう。どこまで行けるのだろう。」

このモノローグにあわせて映し出される映像は、幻想の世界の中で、明里の面影を持つ女性と二人きりで並んでいる自分の妄想。

この時点で、明里は過去の存在になっている。明里の横顔を見るカットで貴樹の表情が少し悲しげになるのは、もう明里との距離が絶望的に隔たれたことが明らかになってしまった証左だ。この一瞬のカットが重要なのである。

貴樹は「迷ってばかりなんだ」とも、2章ヒロインの澄田に吐露していた。

澄田は、遠野貴樹が「もっと向こう、ずっと向こうの何かを見ている」と看破した。

それだけではない。澄田が同時に悟ったのは、貴樹の遠距離恋愛じゃなく、もっと達観した、「何かを見ている」ということだ。

遠野貴樹の心理分析はこれにて完了する。

貴樹はもう、鹿児島に引っ越した時点で「君の姿」を見失った。

妄想の世界で明里の姿を見失い。出すあてのないメールで、小説の文体じみた文章を綴り、迷ってばかりの自分を見失い。その延長で、3章の、明里とは赤の他人の「3年間付き合っていた女性」と1000回もの通じ合わないメールのやり取りをした。


―『秒速5センチメートル』のタイトルがバッと現れ、『one more time one more chance』とともに、登場人物全員の「想い」がリフレインされる。

皆が探していた。誰かの面影を、過去を。

最後。つながる踏切のシーン。

貴樹は、ついに明里にめぐりあうことに成功したのか?

いいや違う。過去だ。過去を見つけたのだ。虚空の中に過去を見出したのだ。過去の無邪気な自分を精算したのだ。

純愛なんて嘘っぱちだということを、貴樹はリフレイン・シーンで知っていた。

水野と同衾するが、背を向け合うカット。

これは決定打だ。

もはや「純愛」の心までも見失った。

恋愛などただのトリガーだ。他人の姿を探しているつもりなのだろうが、すべてを見失ったものが探すものは、熱い感情を持っていた自分自身だ。

―踏切の遮断器があがり、線路の向こうには何も居ない。虚空。だが、遠野貴樹は探していたものに出会えた。

小学生の頃、いちばんはじめに見つけた、自分自身の心の内を。

遠野貴樹は再び見つけた。

そしてふと笑うように去っていく。

ほかの誰でもない、虚空に描き出された自分自身に、愛をこめて。


以上、こじつけにこじつけた暴論でした。

書くのやめようとしたけど途中で思考停止するのはナンセンスだと思った。

だって、『one more time one more chance』を鬼リピしていると、「自分自身を探す歌」に聞こえてくるフィーリングがあったから。

そう聴こえるのは、僕だけなのか。

Galileo Galilei 再結成によせて

タイムラインでGalileo Galilei再結成の文字が踊った。

本当なのかと、リアルタイム検索。

マジだった。

私にとってGalileo Galileiは、多感な10代後半から20代前半まで、一番聴いた活動中の邦楽ロックバンドだ。

はじめに出会ったのは、駅前TSUTAYAさんで借りた、アニメ「あの花」OP、『青い栞』である。

正確に言えばおおきく振りかぶってとかAUのCMで認知はしていたが、「あの花」が面白かったし、OPもいい曲だな~と漠然と思っていて、何気なく駅前TSUTAYAさんでレンタルしてみた。

表題曲『青い栞』の再生が終わり、カップリング曲がはじまる。

ここで衝撃が走る。



実際に聴いて頂きたい。『青い栞』と、そのカップリング曲『SGP』『スワン』を。


『SGP』の、このザクザクしたエレクトロ。バチバチに来た。 このときからだろうか、私はロックには電子音がなければつまらないなと思うようになった。

『スワン』の、まっすぐなシューゲイザー。あの頃、オアシス系でシューゲイザーは少しは周知していたが、やはり日本語のシューゲイザーは新しくて、これにも衝撃を受ける。

そして、全3曲のリリックすべてに、センスを感じ得なかった。

こわいくらいに青い空を遊びつかれた僕らは きっと思い出すこともない ―『青い栞

どのくらい泣いて どのくらいここで 噓笑いをしていたんだ ―『SGP』

心療内科の受付横の窓からみえた 砂場の如雨露に苔がむす 揺れていたブランコは一つに結ばれ「ここにいる」なんて言葉は嘘になるんだろうな ―『スワン』


病み気味の私にとって、ダイレクトな歌詞。少し病んでいる人には、この歌詞に共感するはずだ。


旧譜も聴いた。

この頃のGalileo Galileiはよくあるギターロックバンドだと、当時は おざなりにしていたが、20代になってから、この頃のガリレオの青臭い青春感覚。初期衝動。そして年齢に比例しない大人が思いつくような超インテリな歌詞をしみじみと感じるようになる。

とくに――

受け入れることは 染まるのとは違うから 『ハマナスの花

すごい歌詞だと思わないですか。17ぐらいの青年が、こんな歌詞を描くなんて、想像つきますか?

今じゃすっかりGalileo Galileiの黎明期が大好きになった。よくあるギターロックバンドじゃない、等身大の自分を描き、かつアタマの良いバンドだと思っている。

「あの花」の放送が終わって、次は「ガンダムAGE」のタイアップ曲を聴く。


開いていく天の窓から刺すような胸の痛み 眩しすぎるほど 『明日へ』

ガンダムにおけるスペースコロニーを、「開いていく天の窓」と表現するセンス。すげぇーなこれ。

―そんな翌年。2ndアルバムPORTALが発表される。


聴いたこともないシューゲイザーと電子音の玉手箱。

日本にこんなバンド、ほかにあったか?

驚愕した。他のバンドを引き合いに出して申し訳ないが、バンプ系とは断然違う音を鳴らすバンドと確信する。

いざ現場に行くぞと、ツアーに応募したけども、あえなく落選。

初めて行けたのが、2013年の『Galileo Galilei ALARMS TOUR 2013』

若かったなーあの頃は。

補足しておくと、Galileo Galileiは、私がライブで姿をみることなく二人が脱退して、東京から北海道に引き帰った。

2022年現在の話になるが、脱退した岩井郁人氏を含んでGalileo Galileiが再結成する。ライブでその姿を観たことがない岩井さんに、これからのGalileo Galileiで出会えると思うと感謝あるのみだ。

その後もけっこーライブにも足を運んで、夜勤バイトして予備校を通う忙しいルーティーンでも彼らの音を聴き、辛いことも楽しかったことも、Galileo Galileiと、あの頃の自分に刻みつけられている。

横浜の奥の、貧相な丘陵地帯に住んでいた私にとっては、街の暗さを打ち砕くものを感じた。

Galileo Galileiは、常に進化し続けるバンドだ。

ベストアルバムで変遷を追っていけばわかるが、当時のバンドたちとは一線違う進化を成し遂げている。

洋楽シーンを意識する曲を次々とドロップしていく。

自分も音楽知識もどんどん積み重ねていって、昔のシューゲイザーやあの頃のトレンドと比較して時代を意識した。

THE 1975の『chocolate』をカバーしたのは良かったな。

解散が近づいていくGalileo Galileiで一番好きだったのが『バナナフィッシュの浜辺と黒い虹』

このベスト盤より、このテイクが最高にいい。

そして運命の2016年がやってくる。

2016年冬。Galileo Galilei解散決定。

そしてドロップされたアルバム。『Sea and The Darkness』このアルバムにはとんでもない力が込められいた。

ドラム尾崎和樹氏の切実な、あまりにも切実な、切り込むがごとき演奏。

とくに『ボニーとクライド(アルバムバージョン)』のドラムが、とんでもなく激しいんだ。

必聴である。

『Sea and The Darkness』のツアーにはいけなかったが。なんと武道館ラストライブのチケットを争奪した。

泣いた。ひたすら泣いた。泣いたとしか書きようがない。めずらしい過去の曲も次々と演奏され、『バナナフィッシュの浜辺と黒い虹』のAimerとのドュエット。私は生きていてよかった夜を見つけたのだ。

「バイバイ」

ライブが終わり、こんなメッセージが掲げられた。

もう、俺の青春はこれなんだ。これしかないんだ。そう思った。

このライブが終わったのち、私の体調が徐々に不調に陥る。

同年。おっかけてた某人気声優の休業と、Galileo Galileiと同じく愛していたバンド・plentyの解散。

予備校と夜勤を続けていた身体にガタが来たか、2017年に僕はバイトをやめた。


だが、尾崎兄弟ひきいるGalileo Galilei後のプロジェクトは次々と進んでいた。

尾崎雄貴WARBEARというソロプロジェクト。

さらに Bird Bear Hare and Fishという、Galileo GalileiメンバーにDAIKI氏を加えたプロジェクト。

尾崎雄貴さんたちは、解散しても前向きに活動を続ける。

Galileo Galileiを終了したのは、おもちゃの車から降りたから」

そんな言葉で、2017年以降の活動も精力的に始動しはじめる。

バンド名をBBHFに変えてしまうほど変化し続けるのである。

しかし、突如舞い込んだ悲報。

Galileo Galileiの頃から尾崎兄弟と友達の、最古参メンバー佐孝仁司氏の脱退。

これには非常にショックを受けた。

そして自分は、BBHFへの熱意が急速に下がる。

もちろん曲は出るたび聴くが。やっぱり最古参のさこぴーが居ないと、ダメなんだと。

あと、冷めた理由の一つに、「BBHFのファンの写真でコラージュ画を作ろう」という企画に自分の写真を送ったのに採用されなかったこと。

そんなふうに一歩手前に戻って彼らを聴いていたけども。

しかし、今日突如ゲリラ的に発表されたGalileo Galilei 再結成宣言」

めまいがした。動悸がした。

俺の多感な青春期にブッ刺さったGalileo Galileiが、あのGalileo Galileiが、そのGalileo Galileiが、再結成する。。。

文字にできない万感の思いが押し寄せる。

辛かったときも、楽しかったときも、そばにあったGalileo Galilei

最近になって、横浜のイナカ地帯から引っ越した僕は、Galileo Galileiは過去のものなんだと、生まれ変わっていくものなんだと、前に進んでいくものなんだと、ガリレオ解散後のプロジェクトを前向きに捉えるため、「あえて」武道館ライブのBDを売った。

引っ越した都会の方の横浜の景色には、ナチュラルな自然と調和するようなGalileo Galileiの歌とは似合わないような気がしたからだ。

Galileo Galileiで最後に発表された曲『車輪の軸』


キスしてさよならだ 過ぎ去っていく日々に 『車輪の軸』

ここで、Galileo Galileiの終わりを、区切りをつけて、「さよなら」なんだと。私は武道館ライブBDを手放した。

だが、彼らが戻ってくる。

その衝撃に、僕は耐えられるだろうか?

新たなGalileo Galileiの開拓精神を受け入れたい気持ちと、思い出を壊されたくない気持ちがないまぜになった脳内。

だけど、やっぱり踏ん切りを付けた。

ファンクラブに加入して、復活ライブ先行抽選にエントリーした。

これには当選したい。絶対に当選したい。やっぱり当選したい。やっぱり観てみたい聴いてみたい。

あの頃の青春と今の自分。それに向き合う「鏡」が、私にとっての「Galileo Galilei観」なのかもしれない。