大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

板垣恵介「餓狼伝」の再開への期待。または叶わぬ願い。その1。

※注意 筆者は夢枕獏の原作を1ページも読んでません。完全に板垣恵介版のみを解釈した記事になりますので、原作小説との見解の誤りがございましたらご了承願います。

先日。10年以上ぶりに、『板垣餓狼伝』をイッキ読みしました。
これが『刃牙』と並行連載されていたなんて、おおよそ考えられない。刃牙シリーズとは似て非なるテーマと価値観の物語を描いていたこと、その完成度の高さに、驚き、ワクワクして一気に読み終えてしまいました。

流浪の格闘家、丹波文七の本来の目的。

北辰トーナメント編終了後。物語の主人公は丹波文七に戻り、彼にまつわる物語が再始動します。

KC版23巻にて、北辰館トーナメント編は終了。トーナメントのいち観客に過ぎなかった丹波文七の、流浪の空手家で格闘家としての道場破り物語がまた始まります。

文七が動き始めたこと。それと同時に路上のケンカをふっかけはじめた謎の格闘家・村瀬豪三が登場。

村瀬は強豪たちと度重なる野試合を行い、勝利を重ね、ついに丹波文七と衝突したところで、KC版25巻で餓狼伝は終了します。

(こんな場面で終了って、そりゃないでしょッッッ!)

wikipediaによれば、2010年10月12日。このページを最後に連載が止まったまま、何もアナウンスされずに2024年現在へと至っているのが現状です。

現在の「喧嘩稼業」みたいに復活に期待する兆しは僅かにあるのか、それとも「銀と金」のように終わった物語として打ち切られるのか。未知数ではあるところ。しかし、余りにも時間が過ぎてしまったことは悲しいばかりですね。

丹波文七に話を戻しますと、彼の「強者を求めた戦い」って、vs堤城平戦で、もう終わったのではないかと思うんです。

KC版10巻~11巻。激戦を極める堤城平との打撃戦。ここで丹波文七は、自ら鎖で繋いでいた、裡なる餓狼の存在を感じ、解放させた「虎王」で堤を打ち破ります。

そして堤との戦いが終わったある日。堤からの誘いで病院に見舞いに来た文七は、堤と笑って語り合うのです。

このシーン。このシーンで、板垣恵介の描く『餓狼伝』は、ひとつのテーマの着地点に、この上極まりなく綺麗で見事に、鮮やかに、爽やかに着地しました。

刃牙』の場合ですと、刃牙は、最大トーナメント編で「男が誰しも夢見る地上最強」のチャンピオンに君臨し、その後は範馬勇次郎と戦うことを明確に目標に定め、親子喧嘩編でそれが終わり、範馬刃牙本人の物語はそこで終了しました。

範馬勇次郎は、親子喧嘩編で「自らが強すぎて強敵と戦う目的が果たせない孤独」を語ります。

そして、強く育った息子・刃牙との戦いでその目的が果たされ、刃牙のみならず、勇次郎の精神的成長を持って『範馬刃牙』は完結しました。

丹波文七が序盤から強者を求め、道場破りに路上のケンカを繰り返していたのは、前述の堤城平との「楽しい戦い」を求めいたのではないでしょうか。

そして文七は、その夢を叶えちまったわけなのです。

トーナメント編後に路上をさすらう丹波文七は、堤城平とのファイト以上かそれに匹敵する「戦い」を、飢えるように求めていたはずです。

トーナメントに出場した強者たちに、通り魔的ストリートファイトや道場破りをする文七の精神状態は1巻に戻ってしまい、おおよそ堤と「楽しかったな」と語らう笑顔とは全く別である、凶悪な餓狼の笑みを浮かべています。

丹波文七は飢えているのです。飢餓感と同時に在るもの。それは範馬勇次郎と同根の「孤独」ではないでしょうか。

その2へつづく。

2023年、観た映画を新作旧作関係なく列挙してみるメモ。

では、面白かったものは太字で。

思うところがあったら、ネタバレにならない程度に所感をば。TwitterやFilmarksにての感想のリンクも置いときます。読みにくかったらすんません。では。



PSYCHO-PASS PROVIDENCE
もはや、視聴者の誰もが、PSYCHO-PASS1期を神格化するほど、「1期を超えなければならないシリーズ」になってしまったPSYCHO-PASS
今年で足掛け10周年。本作で、遂に悲願の「1期超え」が達成された。少なくとも自分としてはそう思っている。
数々の世界的名著を引用し、類まれなるインテリゲンチャで冒険を試みたPSYCHO-PASS1期。
それを越えるにあたって、今作は何を引用し、援用したか? ―人類最古のベストセラー「聖書」だ。
これ以上言うとネタバレになっちゃう。とにかく、1期に負けずとも劣らない作品になったことは喧伝したい。

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||

ソラニン

銃(2018)

映画SHIROBAKO

映画ゆるキャン△
何故いきなり大人になった話にしたんだろう。…と、丁寧に高校時代の心象を描くテレビアニメを観比べて、どうしてもそう思ってしまう。

コラテラル

残穢【ざんえ】―住んではいけない部屋―

マトリックス リローデッド

劇場版「進撃の巨人」Season1前編~紅蓮の弓矢~

劇場版「進撃の巨人」Season2後編~自由の翼

劇場版「進撃の巨人」Season2~覚醒の咆哮~

ブリスター
メチャクチャ面白かった。ざっくり言うと「トレインスポッティングのフィギュアオタク版」。
この頃のオタクは電車男みたいなパブリックイメージを持たれがちだけど、シャレたオタクを移したユースグラフィティもあるもんだ。
私もアクションフィギュア収集が趣味かつオシャレな男を目指しているオタクなので、この映画は自分の美学の一つの指針になりました。

夜空はいつでも最高密度の青色だ
渋谷で試写会に行って、自分の好きなバンド「ザ・ミイラズ」の音楽が流れたときスタンディングで拍手しようとしたぐらい、「時代を写し取った」作品なんだが、ひとつだけ悲しかった。
我々は、この映画が公開された2017年とは、コロナ禍によって隔絶されてしまった。東京の若者ムービーで、ついでに「さよなら歌舞伎町」とか見ようと思ったけど、もう、人々の心はコロナ禍によって一度引き裂かれたのだ。断絶された東京の風景は、主観性を失って、歴史的遠近法の彼方で古典となっていく………。

スカーフェイス

ノスタルジア

マイアミ・バイス

レーニングデイ

JOKER

バンク・ジョブ

バリー・シール/アメリカをはめた男

ブラック・スキャンダル

アメリカンスナイパー

グラン・トリノ


ブロークバック・マウンテン

アトミック・ブロンド

ザ・ウォール
多分人生で観てきた戦争映画で五本の指に入る。
アメリカと中東の戦いを個人スケールにフォーカスして、最小規模の戦闘で最大規模の戦争を描く、一種の縮図。3回ぐらい観た。

星の子

シン・仮面ライダー

すずめの戸締まり

聲の形

かがみの孤城

ウルフ・オブ・ウォールストリート

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

凶悪

秒速5センチメートル

天気の子
新海誠が、恋愛小説みたいな小品から、ビッグバジェットで政治性まで語ることを決めた「君の名は。」の次作。
だが、実際のところ政治性はわりとどうでもいいと思っている。問題はこの映画が明かした、新海誠の決定的な真実。
それは、【新海誠は「無神経な男」】ということだ。
最序盤、嵐の船上で命を救ってもらったスガさんに、お礼としてビールを奢るシーンで「たっけぇ…」とか言ってしまう。
新海誠の主義は、この序盤シーンで確定された。
そして、その無神経さは、ラストシーンでヒロインか世界かを選ぶ決断まで通じている。

言の葉の庭
(上記の感想からつづく)
そして新海誠の無神経さがピークに達した映画がこれ。
東京の人の波に急に止まってビルを見上げる主人公。
新宿御苑の、ユキノ先生以外誰も居ないプライベートな空間にズカズカ入り込む主人公。
終盤、突然機嫌が悪くなったようにユキノ先生の部屋から出ていく(そもそもユキノ先生の部屋に高校生がいるってシチュが唯我独尊)が、泣いて階段を降りてくるユキノ先生を、階段の踊り場で待機する主人公。
新海誠の無神経さは、昭和のオッサン魂すら感じる。それは「秒速5センチメートル」でも片鱗が見えていた。
しかし、そのナイーブな語り口とは全く裏腹な、無神経さ、昭和のおっさん根性が、彼の作品に惹きつけられてしまう要因の一つなのは確かだ。

すずめの戸締まり

ボーダーライン
新人の女相手に、ベテランがイキって終わる映画。それでいいのかなぁ。と「トレーニングデイズ」を観てから思う。
戦闘シーンは最高です。あと、本放映でも思ったんですが、ラストでメキシコの麻薬王の食事に潜入するシーン。アメリカ国境から麻薬王の中枢まで行くんだけど、あまりのカットの速さで、デル・トロが食卓にワープしたように見えてしまった。

ハケンアニメ!

異邦人 デジタル復元版

mid90s
同時代的に、「GTAサンアンドレアス」が連想されるけど、両方とも90年代西海岸スケートパンクが流れない。そしてモリッシーやストーンローゼズが流れる。あの頃の彼の地のメロコアってどういう扱いだったんだろう…。

ベイビーわるきゅーれ

ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー

魂のゆくえ

マイノリティリポート

葛城事件
filmarks.com

レオン完全版
これほどカッコイイ&背徳的リビドーの琴線に触れる映画、他にないでしょう?4回観ました。

ダークマン

フィフスエレメント

ニキータ

花束みたいな恋をした
4回くらい観て、Filmarksに感想を綴ろうと思ったけど、全く体系だった感想文が書けず。
ドゥルーズボードリヤールを下敷きにしてイロイロ感想を述べたいのだが、難しすぎて語れない。
ただワタクシみたいに小難しく考えなくても普通に泣けます。めちゃくちゃ面白いです。

淵に立つ
カメラワークと美術の秀逸さは、まるで「メタルギアソリッドV ザ・ファントム・ペイン」のような「人は観たいものしか観られない」感覚を彷彿とさせた。
ただ、プロテスタントの母が、キリスト教徒だから八坂を救わなきゃ、みたいな決意が、どうにも決意として薄味に感じる。

歓待

よこがお

CURE
filmarks.com

羊たちの沈黙

ミスミソウ

キル・ビルvol.1

ストレイト・アウタ・コンプトン

スタンド・バイ・ミー
男の子なら4回ぐらい観ちゃうよね。

キック・アス

キック・アス ジャスティス・フォーエバー

さらば青春の光

あの頃ペニー・レインと

さよならバンドアパート
え、バンドアパートが登場しないし、劇中一回しか言及されてないんですけど…ブラックジャックによろしく的なタイトルのネーミングセンスなんでしょうか。

ジョン・ウィック
残弾数を身体で覚えない。狙撃されるところで寝る。この描写は如何に…。

アルキメデスの大戦
filmarks.com

シャッターアイランド

J・エドガー

ヘルボーイ(新)

ザ・マスター

男たちの挽歌

フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ

心が叫びたがってるんだ。(アニメ)

サイレントトーキョー

真夜中乙女戦争

虐殺器官
伊藤計劃は我が心の師。しかし、映像として観ると、「スパイと兵士のハイブリッド」の活動が、落差ありすぎる。密偵とアーマーを着て戦闘するのが、同じ人である必要はあるのだろうか…。

ビッグ・リボウスキ

トレインスポッティング

ファイトクラブ
filmarks.com


パルプ・フィクション

ジャッキー・ブラウン

究極に面白かった映画。

冷たい熱帯魚
filmarks.com

青い春
チバユウスケさん。安らかに。
filmarks.com




・・・・・あれ、新作映画、PSYCHO-PASSひとつしかない!?

映画感想『CURE』黒沢清(1997)

まず、この映画は『ファイトクラブ』と同じ構造の映画である。

現代社会への閉塞感を暴力で打開する映画。

その根拠に、現代社会と相容れない人間の本能(村上龍『愛と幻想のファシズム』で云われているような現代社会によってパージされた人間の本能)を置く。

『CURE』は、前述のような あらすじで語り終えてしまう映画だ。

ファイトクラブ』や、本作が原型の伊藤計劃虐殺器官(原作/アニメ版)』のような、観客が推論してしまうようなギミックが、あるように見えて「無い」のだ。

ただ単純に、現代社会に封じ込まれた己の本能の衝動。ヒトのあるべき姿を、メフィストフェレスの間宮が暴いていく。それらを、この頃流行っていた『セブン』系ミステリふうに装い、ヒトコワ・ホラー映画のように列挙しているだけの映画だ。

この場合の映画は『プレデター』形式になる。

一度タネを知ってしまったら、二度目を観た時「プレデター」の正体に驚かない形式。

だが、決してそれは欠点ではない。

ギミックがない分シンプルに物語を理解しやすい。

役所広司の類まれなる演技力によって、現代社会と相容れない実存的な憤怒が痛感できるシーンが次々と提示される。

間宮は、社会にとらわれず気ままに生きるべきであることの象徴なだけで、催眠術など、ミステリの邪推要素でしかない。

続けて言うが、この映画は極めてシンプルな物語なのだ。日本映画、ならびに日本文学では、「ぼんやりとした不安」がバックボーンに居坐っている作品が多い。

しかし、不安の正体を明かしてくれる処方箋的作品は意外にも少ない。処方箋。つまり、CUREとは、「イライラしたときにファイトクラブを観たくなるような感情」への処方箋。と捉えられる映画なのだ。

個人主義の果てに。サイコロジカル化する世界。だから、絶対に守らなくちゃいけない「規範」

数年ぶりに映画『虐殺器官』を観てた。

徹底的な監視・管理社会でテロリズムを抑止している世界の映画である。

「9・11テロ以降」を前提に、人物や社会に関して、かなりリアリティのあるディストピアを描いたハードSF映画だ。

映画では言及されてなかったけど、原作本文には、「トレーサビリティを越えた個人の絶望によるテロは止められない」とあった。

現実の延長線にある、極めてリアリティのあるディストピアを空想すれど、この作品では、そういう暴力行為は止められないと描かれていた。



京アニの裁判」が始まって、いま3週間目だ。

もう何度も報道される公判の内容。私は全く被告の主張が理解できない。

この事件にも限らず、そもそも人をあやめるに至る思考回路が理解できない。

殺したい人間なんて、誰だって生きてりゃ頭の中に何人も浮かぶものだと思うが、実際に行動など起こさないし、そのラインを越える人間の心理構造は、一般大衆には判らない。

精神医学や犯罪心理学の世界。このラインを越える思考回路が研究されて、判っていることもあるのだろうけど、どちらにしろ、そんな思考回路は2023年9月末を生きる我々一般大衆には理解されていない。

第二次世界大戦終結し78年。60年代の学生運動だとか、オウム真理教だとか、いわゆる キレる17歳。な犯罪だとか、様々なサイコロジカルな事件を経てもいま、大衆は一線を越える人間の思考回路を理解できないでいる。

理解できず、理解することもできないので、大衆は報道動画のコメント欄に「こいつは死刑」など、架空の物語に登場する悪魔を倒すことを望むかのように、残酷なことも発言できる。陰謀論も蔓延る。

法治主義の欠陥が露呈し、それを修復することは不可能。 まるで、そんな現実をまざまざと見せられているようだ。



パソコンの前に坐ると、我々はパソコンの前でしか物事を観測できない。

ゆえに人の心も理解できない。セックスも理解できないから少子化になり、政治も理解できないから、誰も投票に行かないし、政治にアツイ人たちを冷笑して見下す。

画面越しに増幅していく、身体性のない喜びや憎しみ。

元来人間は文字だけがコミュニケーション手段ではないのに、文字だけで完了するコミュニケートだけが、パソコンの前に坐る人間に広がる世界だ。

やり取りは文字だけなので、文字以外の部分をサイコロジカルな妄想で補完する。

過剰に人を恐れるのも、全く無関心に人を断罪できるのも、ホモサピエンスの遺伝子コード上に存在しないバーチャルという世界がそうさせる。

ホモサピエンスが全宇宙を解明するのは無理だ。 ホモサピエンスが別個体の脳を完全に解読することも無理だ。

「パソコンやスマホの構造はよくわからんが、動く!」の「よくわからん」部分をサイコロジカルな妄想で補う。

そんなパソコンやスマホがインフラになった世界は何なのか。

吉本隆明の『共同幻想論』は、サイコロジカルな妄想で社会が構成されていると描かれている。

『サピエンス全史』も、ホモサピエンスサイコロジカルな妄想で社会を発展させたと描かれている。

個人が抱く妄想で成り立っている世界。それが現代社会の正体だ。

我々は妄想で成立した世界を生きている。



さて、私は上記の通りに問題提起をした。しかし、私にはこのサイコロジカルな妄想世界をどう生き抜くか、提案が一つだけある。

「規範を守ること」だ。

「規範」が正しいのか正しくないのか、そんなことはどうでもいい。

ただ、ホモサピエンスが数万年、試行錯誤の末に造り上げてきた、社会を成り立たせる「規範」を守らなくてはならない。

こないだ騒がれてたインボイス反対署名の話なら、インボイス反対署名を規範に応じて提出する。政治家は規範に応じて受理する。

ジャニーズがどうとかの問題なら、感情で人を断罪せずに、日本国の法律に基づいた規範的な判断で人々が動く。

人に優しくあろうとすることが現代の規範である。だから、否が応でも他人に対しては優しくあるべきだ。

逆に間違った規範に苦しめられているのなら、規範にそって規範を修正する行動を起こすべきだ(規範を修正すれども、規範を破壊してはいけない。)。

社会は、あまりにも脆い妄想で成り立っている。

そんな社会を壊さないために、最良な「妄想」を選択しろと、人類が叡智を集めて作った「規範意識」。

とにかく、規範の中で生き延びろ。 それしか私にはこの記事で言うことがない。

音楽映画紹介「青い春」

『青い春』(2002)

監督: 豊田利晃
原作者: 松本大洋

Amazon.co.jp: 青い春を観る | Prime Video

www.youtube.com


音楽は、THEE MICHELLE GUN ELEPHANT

並びに、ミッシェル系の日本のガレージロックバンド複数組が挿入歌を務める。

劇中にBGMはなく、これらロックバンドの演奏のみが流れる。

学ランのヤンキーたちが、暴力やイジメや非行を行うシーンに、激しくギターが鳴り響く。

ヤンキーがギターを練習するシーンもあった。

私は当時の世代ではないので、証人というわけでもない。だが、この頃のロックミュージックは、ヤンキーのものであったということを実感できる映画だ。

ASIAN KUNG-FU GENERATION 後藤正文は、アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』に際して、その頃の現実をこう証言していた。

いわゆるロックをある種の不良性から奪還(追記:解放と書いたほうが正しいかも)したことはひとつの成果なのではないかと『ぼっち・ざ・ろっく!』を観ながら思った。
(中略)
俺たちはロックが持つある種のドレスコードに反発していた。それは華美な衣装や化粧だったり、革ジャンのイメージだったり、あるいはハーフパンツとクラウドサーフだったりした。デビュー当時は「あんなのはロックじゃない」と散々言われた。

ドサクサ日記 12/5-11 2022|Masafumi Gotoh

(書くまでもないがASIAN KUNG-FU GENERATIONTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの強い影響下にあったバンドのひとつである。)

現在29歳の私は、2000年代の小学生の頃。しばし警察沙汰になるほど問題児なヤンキーの友達(?)が居て、いじめられたり、殴り合いを強要されたり、家に呼び出されて、般若とかトコナXの日本語ラップを聴かされていた。

日本語ラップの歴史が、「フリースタイルダンジョン」などで詳らかになった現在なら、分かってくれると思う。

当時のアングラな日本語ラップ、ひいては、昔の般若/妄想族やトコナX/モサドみたいな「イカツさ」と同等なものを、邦楽ロックは携えていた。そんな時代が確かに存在していたのだ。

あとは、押尾学の存在も思い返してほしい。彼もヤンキーロックの代表格である。

音楽映画として観れば、本作品『青い春』は、2000年代初頭の邦楽ロックシーンのリアルを垣間見れる。時代を切り取った証拠フィルムと言っていいだろう。

顧みて、「ロック=ヤンキーのもの」という構図など、2023年の現代の感覚では全く結びつかない。

「ヤンキーロック」以降、邦ロックは「ロキノン系」「サブカルクソ野郎」のものになった時期を経たが、日本語ラップの現在地と同等にロックもポピュラー化の一途を辿って、今がある。

『ぼっち・ざ・ろっく!』現象もその一つに過ぎない。ロックはポピュラー化したので、フジロックサマソニに海外の大物ロッカーがお金を稼ぎに毎年来日する。

老若男女。陰キャ陽キャ。誰しも、ギターロックを当然に享受する2023年。

21年前に撮られた、この映画は、アジカンが直面したロックの不良性を垣間見れる貴重な証拠物件だ。

ヤンキーにはヤンキーのロックがあったことを、忘れないでほしい。

陰謀論がたとえ真実だったとしても陰謀論を信じてはいけない話。

きょうは8月12日。

何かとは あえて言わないが、この日は毎年、色々と陰謀論まことしやかにささやかれる日である。

私は かつて『陰謀論とは無自覚な悪』『陰謀論は、善人が、嘘の情報を、よかれと思って風説する現象』だと断じた。

百歩譲って、陰謀論が真実だったとする。

しかし、それが真実だとされても、流布してはいけないのだ。

社会には秩序というものがある。

秩序は絶対に守らなくてはならないものである。秩序を守らなければ社会は成り立たないからである。

社会で生きる人間は、遵法精神の前に、一般道徳/常識レベルで、秩序を守る意識を自発的に持たなければならない。

法律や一般道徳や常識で「正しい」と結論付けられたものは、無条件に正しいと信じる。これは、社会という秩序の中で生きるものの義務である。

よかれと思って、法律/道徳/常識を逸脱する情報を発信する場合。その「よかれ」は、たとえ真実だとしても、秩序から逸脱すれば、もれなく絶対悪になると思っていい。

もし、真実が隠匿されることで不利益を被っている場合。まずは法的/道徳的/常識的な手続きをもって改正しなければならない。

インターネットで、その真実の流布を行っても、草の根の活動ごときでは、法律/道徳/常識を変えることはできない。

正しい手続きを経て真実を糾弾しなければ、「秩序を乱す」という新たな悪を生じさせるだけだ。

この社会では、法的手続きを経て、上訴を行う権利は万人にある。

社会が定めた、その権利の内で、正しい真実の追求や啓蒙を行われなければダメだ。

秩序を乱せば、善意は、無自覚な悪意に陥るのだから。

ネットスラングと社会ダーウィニズム

 最近、Twitterとかユーチューブで散見される、なんだか、シャクに触るような言い回しがある。

具体例をあげる。「性癖」の意図的誤用。「擦る」の意図的誤用。「◯◯くん」。といった言葉。

 言語体系というものは、もれなく淘汰の上に成り立っている。

日本の標準語さえ、地方の方言を蔑ろにして、東京一極集中主義を掲げる政治の力でゴリ押しされた、日本列島数多の方言の死骸の上に立つ強者の言語だ。
 
それはネットスラングでも変わらない。下世話な淫夢語録がネットに蔓延るのも、淘汰圧がそうさせた必然だから、いちいち目くじら立てても仕方ない。

社会ダーウィニズムの必然。文句を言ったって、誰も止めることは出来ないのだから。

 しかし、ネット社会という、文字のコミュニケーションに特化した力場は恐ろしいもんで、日々、とんでもない加速度で、新たなスラングミームが生まれる。

思ったことを即座に文字にして殴り書く、書き手。短い文章しか読めない、読み手。そんなSNSの場は、書き手/読み手の両者とも、常に思考をバイパスする言葉を欲求する。

 例えば、笑ったことを「草」と表現する風潮が支配的なのは周知の通り。

だけど、「◯◯で草」という言い回しは、「〇〇で笑った」と意味合いが決定的に異なる。

「草」の用法。それは、笑ったことに至るあらゆる思考を省略して、多くの人間が共有している「草」という共同幻想に、省略した自分の笑った気持ちを仮託する時に使われる。

よって「草」は、笑うという意味を持たない。「草」は「みんなもそんな感じに笑えるよね」という含意の言葉なのだ。

 「性癖」も「なんかえっちぃよね!」を短縮した幻想。「擦る」も「繰り返しすぎてうざい!」を短縮した幻想。積み重ねられた幻想が、人々の間で空気として醸成され、個々の脳の思考回路を蝕み、社会を変える。

「◯◯くん」なんかに至っては傑作だ。もともと「◯◯くん」という言い回しは、真夏の夜の淫夢用語で、「観葉植物くんオッスオッス!」「淫夢くんオッスオッス!」から更に淘汰圧を受けて、今では淫夢も一切無関係な文脈で、なにかを小馬鹿にしたい時にしばしば使われるものになった。

 そんな、ネット社会の力場が中心の、近年のEスポーツ界隈においては、不謹慎発言が騒がれるのも当然だろう。なにせ言語のスピーディーさを求められるゲーム実況は、即応性のある言葉遣いが必要だから、厳密さを求められるコンプライアンスやポリコレなどと衝突するのは当たり前の話だった。

 言葉のバイパス。それはネット上のやりとり のみならず、ちかごろはフィクションのタイトルにも行使されるようになった。

いわゆる、タイトルで、「この作品はこういう物語です」と説明するタイトル。ネット小説や、ネットのショートマンガに多いヤツ。特定作品をけなしたいわけじゃないし、面白い作品もあるので、具体的には挙げないけど。

さらに、その即応性が加速して、Twitterの「#マンガが読めるハッシュタグ」では、「◯◯が◯◯をするマンガです」と、タイトルの代わりにシチュエーションをハッシュタグの前文に載せてバズりを狙う手法も増えた。

 そういう作品がヒットしている現実が横たわっている。

「説明文タイトル」の作品はあくまで説明文が全てじゃない。説明文に引っかかった読者を更に面白がらせる内容が秘められてるから、フックとして「◯◯が◯◯するマンガです」と言い回すのが、マーケティングとして有効。それを見積もって、みんなそうしていると思われる。

しかし、フィクションぐらいは自由形・フリースタイルで行わせてほしい。フック=読者に分かりやすい前提条件の提示。そればかりに拘泥した作品が優先的に人の目にとまるのは、嫌だと思う。…だが仕方ないかな。それも社会ダーウィニズムが要請しているのだから。


 ネットの殴り書きの言葉遣いひとつですら、ダーウィンの弱肉強食の生存競争原理がはたらく。

この原理が、人々の思考回路を、人々が享受するフィクションを、人々が生きる社会を変えていく。

それは、人間が無意識下に、無駄なものを淘汰して、強いものを生かす。生存競争こそが脳の構造だという証左でもあるのか。