大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

文化盗用の危険性について。

芸術というものは、有史以降、文明社会と密接につながっている。

芸術は、人間の実存を社会に表明する行為である。

とりわけ、グローバリズムが世界を覆う前の世界。芸術というものは社会を動かせるだけの力があった。

人類史において、その最たる現象は、言うまでもなく「ルネサンス」だ。

中世を近代へと進歩させる力が、芸術運動に存在していた。

あるいは、ナチス党では、徹底的にシンボリックな装われたデザインが、国民をファッショさせる大きな柱になっていた。

ヒトラーは、芸術が社会を堕落させるものとして、「退廃芸術」なるレッテルを作ったし、同じく芸術が社会を破壊させることを恐れたのも、ブルドーザーでロシア・アヴァンギャルドを破壊しつくしたソ連だ。

岡本太郎の言を借りれば、芸術は政治と経済に並び立つものだと云う。


西側諸国の資本主義社会が成熟し、ポストモダンという時代に至ったころ、芸術は完全に商品に堕した。

商品は、社会を動かす芸術たりえない。

芸術は商品としてパッケージングされ、商品は、お金という上位の共同幻想を越えられないからだ。

すべてがビジネスに回収される。芸術活動が飯の種になる。「背に腹は代えられない」ものになる。

資本主義社会は、過去、人類史に影響を与え続けた芸術を完全に制御するに至った。



と、ここまでが「商品」の前史である。

だが、芸術は商品に変われど、人間の実存は変わらない。

実存が生み出す表現の文化は営まれ続けるのだ。

人々が何気なく消費してる商品には、文化というバックボーンが存在する。

文化とはプライドである。矜持である。暗黙の不文律がある美学である。

商品に堕落した創造物を肯定する職人根性。

たとえ商品でも、社会を動かせるはずだと信じる実存的な信念。それが文化だ。

その信念を理解せず、文化を理解せず、何気なく商品を消費する行為は、余りにも恐ろしい行いだと感じる。

ボードリヤールをはじめとしたポモ思想家を援用するまでもなく、いま、文化は記号されている。

それは大いなる実存的恐怖だ。

実存、すなわち自我を支える幻想が崩れ去る。

日本社会の若者文化で例を挙げれば、黒人文化(ブラックカルチャー)の安易な記号的消費であろう。

社会の中で虐げられし者たちが培ったものを、流行やオシャレで思考停止し、消費することは美学に反する。

たとえば、ブラックミュージックで表現活動しているアーティストは、少なからずいま米国で社会問題になっているBLMにスタンスを表明するべきだ。それが最低限の礼儀だ、と私は思う。

さもなければ、文化の盗用になってしまう。

ja.wikipedia.org

何が、それと連なっているのか。

それを探る意思のない記号の消費は、もれなく文化盗用と断じざるを得ない。

私は、このウィキペディアの記事のネイティブアメリカンの装束をしている男の画像が怖い。恐ろしくてたまらない。

そして最後に、表現の自由だとか。商業主義だとか。「作者の気持ちを答えなさい」だとか。

そういったものを語る以前に、この、実存と社会の繋がりである芸術と文化の有り様を、よく考えてから、創作・消費するべきである。