大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

「陰謀論者」とは何者か。

かつて、「愛と平和」というスローガンは最も強く、否定/批判することが難しい言葉だった。

少なくとも、現代日本社会というものは、愛と平和を享受して当たり前。それ以上に愛と平和がなくては成立しえない社会だからだ。

愛と平和は、「良識」という価値観に接続される。「良識」とは、社会で他者と調和することに必要不可欠なものである。それによって「良識」は、「常識」と化して、現代社会の地盤になった。

愛と平和はゼロ年代イラク戦争反戦運動の時代ではよく目立った。

良識で調和された社会を破壊する、常識はずれな戦争に反発し、マザー・テレサガンジーのような慈愛や友愛を根拠にした、愛と平和・良識・反戦を訴える潮流は記憶に新しい。

しかし、2020年代のいま。「愛と平和」は限りなく無力であることが分かった。

いくら愛と平和を叫ぼうが、爆撃は止まらなかった。

ベトナム戦争からイラク戦争におけるまでの半世紀。いくら愛と平和を叫び、ヒッピーというカウンターカルチャーが産まれ、ミュージシャンや活動家が融和を訴えても、その愛と平和という価値観は無力にして無意味であることが、20年代を生きる我々の骨身に染みてしまった。

ウクライナ戦争が進行中のいま、彼らは、この潮流はどこに消えてしまったのだろうか。

私は音楽に聡いが、平和を歌う歌はいま圧倒的に少ない。マイケル・ジャクソンのようなスターはいない。20年代のグリーンデイも現れない。

ヨーロッパの隣り、日本からすれば地球の裏側で戦争が行われていても、反戦活動にかつてあったような力はない。

もはや日常化されてしまった戦争。それらは誰にも止められないので、沈黙するしかない人々。

では、愛と平和はどこに消えたのか?

そこに至るファクターは、もうひとつあった。新型コロナウイルスの蔓延である。

世界的な正体不明の疫病に対して、急ごしらえのワクチンを打ち、いちおうは社会を維持することに成功した世界。

しかし、人々の間に軋轢がなかったわけではない。

ウイルスとワクチンと共に発生したのが、「陰謀論」である。

陰謀論は、これら戦争と疫病と共存する奇妙な世界の背景で、じわじわと発展していった。

その土壌はアメリカ国内で「Qアノン」のような形として存在していたが、世界規模で飛び火したのが、この新型コロナウイルスの流行であろう。

あまりにも世界は奇妙な形に変容してしまったのだから、先鋭的な「愛と平和主義」の人々の考え方も変容するのは当然なのかもしれない。

「スピリチュアル系」「陰謀論」は、この奇妙キテレツな今の世界で、全く相性がよかった。

カルト宗教の勧誘のような「良識の押し付け」で、「ワクチンを打つな」、「裏で世界をDSが操っている」、と叫び。カルト宗教のトンデモ神ように、それら一大スペクタクルな陰謀論を信奉してやまない。

思うに、愛と平和を叫ぶものたちは、これら陰謀論に食われていっている可能性が高い。

声の届かぬ反戦活動。未知のウイルス、マスク着用、急造ワクチンの正誤をどうジャッジするかの議論。日本国内でも未だ暗礁に乗り上げる原発問題。

すべて結論は出ないまま。結論を急ぐ者たちが陰謀論にかかりやすい傾向におかれている可能性が高いと、私には見受けられる。

結論を急ぐあまり、トンデモ論に帰結する危険性。

陰謀論なんか信じちゃいないと思っている側の人間でも、それらを今一度精査・注意しなくてはならないのだろう。