大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

「神道」の国教化に関する考察。大政奉還と王権神授説。

明治維新における「大政奉還」は様々な狙いがある。

大政奉還の理由は、列強に追いつくため、合理的でスピーディーな日本の近代国家化の方法として、大政委任論をつくり、天皇を中心とした神道の国家を建設する。という言説が最もポピュラーなのだろうか。

実際の理由は歴史学に任せるとして、大政奉還と「王権神授説」の関連性について考えたい。


古来より、国を統べる強大な権力を持った王や君主は、神に近い存在であった。

古代ローマが帝国崩壊すると、ヨーロッパでは、キリスト教の宗教観が、国家形成に及ぶまで深く台頭する時代が始まる。歴史区分における「中世」の到来である。

国を統治する王は、神より権力を委任された、神意の地上代行者だ。という「王権神授説」が様々なヨーロッパ諸国で根付くことになった。

しかし17世紀にまで至ると、清教徒革命などの市民革命を通じて、国家権力は市民のものであるという意識が徐々に強まっていくことになる。

加えて社会契約説が登場し、17世紀~18世紀の「近代」欧米は、神の権力の時代から市民の権力の時代へと変遷していく時代であった。


そして時は1868年。明治維新を遂げた日本では、神道が国教化された。

欧米列強では、王権神授説など200年前のオワコン。「神は死んだ。」とされる時代に、極東・日本で、神が権力を持つ国家が誕生したのだ。

中国やアジア諸国では、いわば儒教が国教である。 神の子孫である天皇。つまりは神が統治する列強国の存在は、ことさら19世紀後半の世界において、唯一無二のケースではないか。


市民が権力を持つ「理性主義」こそが常識であった世界において、あえて神が権力を握る「非理性主義」を執った列強国家の登場は、あまりにも衝撃的であろう。 極めてロックでパンクな反骨精神あふれる発想だ。

本当の狙いはなんであれ、この神道国教化策と近代世界の結びつきは、かなり面白いものである。