大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

俗流実存主義者のフィクション観。

nuryouguda.hatenablog.com


 奇妙にも、自作の漫画から縁故を深めた、高校生時代から愛読しているブログの主であるヌ・リョウ・グダ氏に、拙著をフックアップされたので、その記事群への感想として。先ずは上記を読んでから、対戦よろしくお願いします。

 彼の逃れがたい境遇と立場を鑑みて、私もポジショントークをする。別にするべきではないと思うけど、した方がいいと思ったので。

 私は親戚の歳の近いイトコを、3年前亡くした。ペットの動物たちも次々と死んでいった。

 同じく3年前に住んでいた実家のマンションからは、タバコや騒音といった些細な隣人トラブルで、10件以上の警察沙汰を経た。精神病棟に送致される直前まで精神の錯乱を起こした。

 送致直前の医師との面談で、精神異常ではないと判断され、私は家から追い出される形で一人暮らしを始めた。抗うつ剤向精神薬は一向に手放せない。トラブル当事者の隣人は、ちかごろ刃物沙汰で捕まったらしい。一歩間違えたら…、なんて考えは今更しないが。

 私は、とにかく荒みきった時期を経た。

 だけど、抗精神病薬の影響か、哀しみとか、悔しさとか、憎しみとか、そういう感情が特段ないのだ。

 近年は、マックス・ヴェーバーの「プロ倫」とか、ヴォネガットとか、「ジョジョの奇妙な冒険」の影響で、俗流プロテスタント思考を手に入れて、予定説だ。予定調和だ。と人生を色々諦められるようになった。

 漫画にお熱を上げてからは、やれニーチェだ、ハイデガーだ、ヤスパースだ、メメントモリだ!一日一日をちゃんと生きろ!とかいう感じの、さも高校生が陥りそうな俗流実存主義者にもなった。

 そういうわけで、Twitterとジャンプルーキー上では「ツァラトゥストラ」と名を替えて漫画を描いています。オ◯ニーショー漫画なので、恥ずかしくてあまり宣伝したくないんじゃが。

rookie.shonenjump.com


(ワタクシのTwitterのヘッダー画像。デジ絵歴9年の画力はダテじゃない!)


 ―そういうわけで。

 コロナ騒動はもう、終わったってことでいいのかな? まぁ、フーコー的生政治社会の側面を垣間見せたコロナ禍があって、およそ日本社会の多数派の人々の倫理ベースは、とにかく「いのちだいじに」ということが詳らかになった。

 命は大事だし、私自身、実存主義者としても、死ぬのはまっぴらごめん。みんなも死ぬな。な考えなので、優生学(反出生主義など)/ナチズムには一切共感しない。したとしても外山恒一レベルの思想ぐらいかな。

 海外はさておき、日本特有の感覚からか、日本のアニメヘッズたちの間では、サイコパスだと人の言う「G-レコ」のベルリ・ゼナムや、「進撃の巨人」のエレン・イェーガーや、もっと遡れば、「翠星のガルガンティア」のレドや、「まどかマギカ」の暁美ほむらを、生命軽視だとチクチク口撃される歴史があったりする。

 「水星の魔女」でも、生命倫理観の違いをギミックにした演出があったり。「リコリスリコイル」(私の漫画のライバルだ!)は、秀逸な演出力で、巧みに倫理観への違和感を逸らす技術が施されていた。

 しばし、日本の漫画やアニメにおいては、人物の生き死にの扱い方はナイーヴだ。

 こういった、生き死にに焦点を於いた作品で、もっとも影響力を持った作家は、富野由悠季/庵野秀明/宮崎駿の、三大巨塔であろう。

 彼らは口々に、生命の尊さを説く。いつかのテレビ番組で、宮崎駿が発言していた、「極めて生命に対する侮辱を感じます。(生命への侮辱を許さない。)」の言葉のパースペクティブ上に彼らは存在している。

 日本サブカルチャー界に強すぎる影響を持つ三大巨塔だ。さぞかし、アニメ好きには彼らの言葉は重い。

 「トミノの説教なんてまっぴらだ。」なんてうそぶいて、欧米人の価値観にその身を置こうとした(私が個人的に敬愛してやまない)伊藤計劃の著書ですら、この日本人的倫理の檻から抜け出せずにいる。

 だが日本人が嗜好するのは、なにもマンガ/アニメ/ノベルにとどまらない。

『ゲーム』だ。


銃をこちらに向けてくるヤツは、目標をセンターに当ててR2ボタンでエイムして撃ちコロせ!

車で市民を轢け!サツに見られてなきゃな!

 なんて、あまりにもキナ臭すぎるゲームが、日本でももれなく大ヒットしている。

 そんでもって、そういう描写が白眼視され、「CERO」という、映倫ソフ倫などと比べても、特殊なタイプの倫理機構を日本のゲーム業界は携えている。

 かくいう私もこのテのゲームが好きで、今年は、「バイオハザードRE4」を150時間プレイしてしまった。

 クリーチャーとはいえ、理性を失った人間という設定の標的を、トンプソン・マシンガンやRPG-7で五体をバラバラにして楽しんでいた。そこには一種の快楽があった。

 こういう「Z指定」のゲームを愉しむにあたって、ナイーヴな倫理感覚など愚の骨頂。

 むしろ、海外版に比べて、グロテスク描写の抑えられた日本版の暴力ゲームにブーイングが起こったりするのも、お決まりの風景。

 みんなシゲキが欲しいんだ。

 ―して、そもそも00年代では、オタクたちの間で「エロゲ」文化が隆盛していたではないか。という話は、セックスと殺戮は全く別なので、ここでは論外。―

 こういう暴力ゲームのシングルプレイモードでは、何百体と現れる敵を撃ち、あまりにも利己的としか言えないほどの暴力を振るい、それでいて悪意を感じさせないストーリーテリングがなされている。

 そして、プレイヤーには、それを享受できる脳内の構造がある。

 われわれに撃ち殺される、コピーアンドペーストで生成されたモデルの敵キャラは、日々リアリティをあげて作り上げられど、ただの標的でしかない。

 そんな標的を撃ちまくり轢きまくるゲームに熱狂する姿など、親には到底見せたくはないし、私に子供がいたら、そもそも、させない…だろう。

 リザルト画面に表示される。統計学上の数値でしかない、殺した敵の数。

 ひるがえって、我々がリアルで生きている社会において、我々は統計学上の存在でしかない。仕事の成果も。SNSの文字上の人間関係も。

 会社に行ってタイムカードを押し、家に帰って、ネットにつらつらと思いの丈を書き込んでは、プレビュー数を気にしている。多くの日本人。

 ワクチンだとか、マイナンバーだとかでも、統計学上の存在として扱われる私達。

 社会という母体から見れば、私達など、ゲームで現れる雑魚キャラクターと同等の、単なる数字なのだ。

 

 そんな残酷な事実から目を背けたい。

 作劇では、主人公に共感を集めさせるのが定石となる。

 そして、共感のしきい値がだんだん減るにつれ、同じテクスチャで作られたコピペキャラに成り下がっていく。

 自分など、社会では所詮、「ハナからオマケです。お星さまの引き立て役Bです。」だと割り切るニヒリストや唯物論者には、フィクションなど、そもそも必要ない。

 そうとは思わない。「俺は畜群でも、ダス・マンでもない!」という実存のくすぶりを、少なからず持つ人間のために、フィクションというものは初めて存在する。

 フィクションを受け取り、己の実存を通して解釈する。

 それを経て、この作品は、面白い/つまらない。倫理的にマトモである/そうではない。と脳内で濾過し、その価値を判断する。

 フィクションとは、利己的な、あまりに利己的な存在なのだ。

 フィクションとは、他者を差別し、作品の倫理性に賛同することによって、己を正当化する武装でしかない。

 俗流とはいえ、実存主義に目覚めた私は、フィクションはそれ以上でもそれ以下でもない。という事実に直面した。

 だから、ニーチェは、読者の実存を奮い立たせるため「ツァラトゥストラ」を、論文でなく物語形式で書いたのだと思う。

 ハイデガーも、「存在と時間」の論文をすっぽかして、ナチスという大きな物語に傾倒したのだと思う。


 フィクションに影響されすぎるのも、あまり愉快な話ではない。

 巧妙に仕掛けられた、時計じかけの差別装置たる「フィクション」に呑まれず。フィクションは、適度な距離感で楽しもう。

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