数年ぶりに映画『虐殺器官』を観てた。
徹底的な監視・管理社会でテロリズムを抑止している世界の映画である。
「9・11テロ以降」を前提に、人物や社会に関して、かなりリアリティのあるディストピアを描いたハードSF映画だ。
映画では言及されてなかったけど、原作本文には、「トレーサビリティを越えた個人の絶望によるテロは止められない」とあった。
現実の延長線にある、極めてリアリティのあるディストピアを空想すれど、この作品では、そういう暴力行為は止められないと描かれていた。
「京アニの裁判」が始まって、いま3週間目だ。
もう何度も報道される公判の内容。私は全く被告の主張が理解できない。
この事件にも限らず、そもそも人をあやめるに至る思考回路が理解できない。
殺したい人間なんて、誰だって生きてりゃ頭の中に何人も浮かぶものだと思うが、実際に行動など起こさないし、そのラインを越える人間の心理構造は、一般大衆には判らない。
精神医学や犯罪心理学の世界。このラインを越える思考回路が研究されて、判っていることもあるのだろうけど、どちらにしろ、そんな思考回路は2023年9月末を生きる我々一般大衆には理解されていない。
第二次世界大戦が終結し78年。60年代の学生運動だとか、オウム真理教だとか、いわゆる キレる17歳。な犯罪だとか、様々なサイコロジカルな事件を経てもいま、大衆は一線を越える人間の思考回路を理解できないでいる。
理解できず、理解することもできないので、大衆は報道動画のコメント欄に「こいつは死刑」など、架空の物語に登場する悪魔を倒すことを望むかのように、残酷なことも発言できる。陰謀論も蔓延る。
法治主義の欠陥が露呈し、それを修復することは不可能。 まるで、そんな現実をまざまざと見せられているようだ。
パソコンの前に坐ると、我々はパソコンの前でしか物事を観測できない。
ゆえに人の心も理解できない。セックスも理解できないから少子化になり、政治も理解できないから、誰も投票に行かないし、政治にアツイ人たちを冷笑して見下す。
画面越しに増幅していく、身体性のない喜びや憎しみ。
元来人間は文字だけがコミュニケーション手段ではないのに、文字だけで完了するコミュニケートだけが、パソコンの前に坐る人間に広がる世界だ。
やり取りは文字だけなので、文字以外の部分をサイコロジカルな妄想で補完する。
過剰に人を恐れるのも、全く無関心に人を断罪できるのも、ホモサピエンスの遺伝子コード上に存在しないバーチャルという世界がそうさせる。
ホモサピエンスが全宇宙を解明するのは無理だ。 ホモサピエンスが別個体の脳を完全に解読することも無理だ。
「パソコンやスマホの構造はよくわからんが、動く!」の「よくわからん」部分をサイコロジカルな妄想で補う。
そんなパソコンやスマホがインフラになった世界は何なのか。
吉本隆明の『共同幻想論』は、サイコロジカルな妄想で社会が構成されていると描かれている。
『サピエンス全史』も、ホモサピエンスはサイコロジカルな妄想で社会を発展させたと描かれている。
個人が抱く妄想で成り立っている世界。それが現代社会の正体だ。
我々は妄想で成立した世界を生きている。
さて、私は上記の通りに問題提起をした。しかし、私にはこのサイコロジカルな妄想世界をどう生き抜くか、提案が一つだけある。
「規範を守ること」だ。
「規範」が正しいのか正しくないのか、そんなことはどうでもいい。
ただ、ホモサピエンスが数万年、試行錯誤の末に造り上げてきた、社会を成り立たせる「規範」を守らなくてはならない。
こないだ騒がれてたインボイス反対署名の話なら、インボイス反対署名を規範に応じて提出する。政治家は規範に応じて受理する。
ジャニーズがどうとかの問題なら、感情で人を断罪せずに、日本国の法律に基づいた規範的な判断で人々が動く。
人に優しくあろうとすることが現代の規範である。だから、否が応でも他人に対しては優しくあるべきだ。
逆に間違った規範に苦しめられているのなら、規範にそって規範を修正する行動を起こすべきだ(規範を修正すれども、規範を破壊してはいけない。)。
社会は、あまりにも脆い妄想で成り立っている。
そんな社会を壊さないために、最良な「妄想」を選択しろと、人類が叡智を集めて作った「規範意識」。
とにかく、規範の中で生き延びろ。 それしか私にはこの記事で言うことがない。