大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

国葬とかウクライナとかリコリス・リコイルの感想 あるいは日記。

現代人類ちゃんは、「<帝国>と<マルチチュード>」の世界で生きているんで、安倍晋三国葬反対過激派が出現しても、しょせん「唯物的に必然」だとしか思わない。

これは悪の枢軸国をやっつける世界の警察アメリカが当たり前だったイラク戦争の時から変わらない。人民は右も左もまとめてマルチチュード。つまり、我々は差別主義を抱いてもリベラルな考え方をしても、全員仲良く鰯の頭なのだ。要するに、我々は世界に無力な鰯の頭たち。

われわれ鰯の頭たちはシンプルだ。なにしろ世界に対して無力なんだから。

物価が高騰しようと、ウクライナとロシアも対岸の火事でしかない。われわれは世界に対して無力なんだから。仕事の合間を縫って、暇つぶしにFGOとかスプラトゥーンで遊ぶだけで毎日は精一杯。社会に対して訴えても何も変わらない。無力無力。

そして、リコリス・リコイルは今の時代を的中させていた。

もはや暇つぶしにエーペックスで撃ち合ってるように、画面の中のキャラクターが銃で殺し合ってて、その姿がかっこよかったり可愛かったら、もはや「コードギアス」や「PSYCHO-PASS」のようなインテリジェンスをハブいても、男オタクも女オタクも、ちょいオタお天気キャスターですらも好きになる人民たちの心を撃ち抜いた見事な作品。

僕らはそんなものなんだ。

ただ分かってもらいたいのは、世界は利益でしか動いてないということ。そこに正義も悪も道徳も倫理もないということ。

加速主義<資本主義(利益の奪い合い)を加速させたら世界はよくなるんじゃね思想>」というイデオロギーが台頭した現在。道徳と倫理はそこについていけるのか。

何をミチシルベにして生きていけるかは、右も左もそれぞれの認識次第だけど、やっぱり僕らは無力なのだ。この世界を覆うグレート・ゲームにおいては。

だが、ニヒリズムに陥らず。色々と移り変わっていく人類ちゃんのことを考えていたい。そんな感じの日々を過ごしています。

言語と認識

「思考は、言葉によって規定されたりはしないッ」ドカーン サーリーロデッドヨンデー♪

虐殺器官』のジョン・ポールは先進国と後進国との壁を作るためにアジテートしてきた男だが、人類文明は資源の奪い合いによって成り立っているので、先進国だけスパっと断絶させて平和になることなどありません。

そして所謂「無敵の人」のテロは止められないと原作で言ってたし、時代が移り変わってるなぁとは思う。(それでも僕は20年代になっても伊藤計劃をキリストのように崇めるんですが。)


『ごんぎつね』の読めない小学生たち、恐喝を認識できない女子生徒……石井光太が語る〈いま学校で起こっている〉国語力崩壊の惨状 https://bunshun.jp/articles/-/55970

結構前に話題になってたコレ。

思考は言語に規定する。という、虐殺器官でも語られたサピア=ウォーフ仮説そのもの。だけどサピアウォーフは、とっくの昔に「生成文法」なる理論で現在では批判的になっているらしい。

ざっくり言えば言語と認識は切っては切れない関係ということである。

我はジョギングが日課なんですが、いまどき平気なツラして逆走キープライト歩道通行で自転車に乗ってるやつらとすれ違う。

彼らの思考を考えると、迷惑防止の条文というものを軽視している感じがしますね。どう考えても言葉のウェイトを軽く見積もってる。


(すんません。引用した なるたるの須藤の主張は過激すぎました)


エモいって言葉


ワタクシは音楽が大好きで、90年代から今にかけての「EMO(イーモゥ)」という音楽ジャンルを聴き漁っているんだけど、エモという言葉は枝葉のように分かれている。
向こうのアメリカじゃエモボーイというファッションスタイルがあったり。

その点に関して僕はとくに嫌悪感はないのだが、最近目立つ日本語の「エモい」って言葉に疑問符がある。

泣きたくなるような激情や高揚感とかの感情を簡略化させて「エモい」と片付ける。
尊い」とか「ありえんよさみ」とか「ここすき」とかもあるよね。
なんか、感情が吸引されてる気がします。

いや。まぁでも、僕自身「尊い」と「ここすき」は使っちゃうことは多いです。俺はマシーンじゃない!


言葉にならない感情

アニメ版『放浪息子

放浪息子を観てた人だけにしか伝わらないと思うんだけど、最近マイブームになってまた全話観た。

これは、ヒロインの一人の千葉さん(画面右)と(画面左下)の主人公の二鳥くんの、恋とも好きとも言葉にならないシーンです。このシチュエーションをどう言葉で言い表せればいいのか、日本語では言語化できません。

でも、このシークエンスで千葉さんの表情から何かを読み取ることができます。

まぁ良く出来てるアニメですよ。おすすめです。


言葉から感情を読み取る

逆パターン。

コードギアス最終回のルルーシュシュナイゼルの録画バトルシーンです。

いろんな人達と関わり戦い助け合っていたルルーシュは、最終盤になると、もう悟りの境地に入っています。

シュナイゼルに投げかけた言葉。

ギアスも仮面もその根源は…!

シャルル、マリアンヌ、集合無意識に放った言葉。

勝ち負けじゃない、これは願いだ!(略)それでも俺は明日が欲しい!

スザクと交わした言葉。

願いとは、ギアスに似てないか?

これらの台詞をどう受け止めるか。考え方はさまざまです。

PSYCHO-PASS

槙島聖護「そうか、君は。」

私は放送当時からこの言葉の意味を何通りも考えていましたが、結論はいまも分かりません。

ストライクウィッチーズ2

サーニャ「このまま、あの山の向こうまで飛んでいこうか」
エイラ「いいよ。サーニャと一緒なら、私はどこへだって行ける」
サーニャ「うそ、ごめんね。いまの私たち には、帰るところがあるもの」

このやり取りも表情込みで意味深な会話です。
なぜサーニャは一緒に山まで飛んでいこうかとうそぶいたんでしょうか。

その感傷も、われわれ受け手がどう享受するのか考えるのです。エモいとか言わずに。

余談。ストライクウィッチーズ。ひいては放送中のルミナスウィッチーズと、過去作のブレイブウィッチーズも、一貫して感性が豊かなアニメです。反戦アニメとしても力のこもった名作です。プーチンに見せたいですね。そしたらプーチン戦争やめるかもしれないぐらい佳い。

まー あとはスローループのひよりちゃん。

この子からは本当に優しさを感じましたね。相手のことを思って、まるで薄氷の上を歩くように温かい言葉遣いをするんです。


…とりあえず、こんなところで。拙著『ガンオーダーズ』はいま2話目を描いてます。よろしゅう!
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サブスクではダメだ。タワーレコードでCDを直接買うべきなんだ。

音楽が好きで、とくに最新の流行に目がないという音好きは、タワーレコードに行って実物のCDを買うべきだと僕は思う。

タワーレコードにある、自分の好きな音楽コーナーの、店員が情熱を込めて描いた手書きのポップ。プッシュしているバンドたちのコーナーの飾り方。

最先端の音楽とはなにか。それを生身で感じられるのはタワーレコードほかないはずだ。

スポティファイやアップルミュージックが編集したサブスク新曲プレイリストをただ垂れ流すように聴くだけでは意味がない。

音楽ブログや最新のインディーズ音楽フェスのラインナップを見るだけでも意味がない。

最先端の音好きは、足繁くタワーレコードにおもむき、今何が旬なのか、目で見て、試聴機で聴いて、自分の心が求めたCDを買うべきだ。

「実物のCDを買うことは、愛着をもたらす。」これが大きな理由だ。

サブスクの垂れ流しの音楽を聴くのではない。CDをセットし、再生ボタンを押し、スピーカーかヘッドホンで聴く。

この一連の動作は、心のチューニングにもなり得る。

「紙の本を読みなよ。電子書籍は味がない」「読書は心のチューニング」と発言する上のキャラクターと同じような感じだろう。

外山恒一をして言えばこういうことか。

その時その時で買ったCDを、時代性ではかってみる。

自分がどんな音が好きなのか、社会はどんな音を発しているのか。それらが「思い出」になって、人生に1ページの豊かさが加わる。そんなかんじ。

次なる「漫画カルチャー」はアマチュアが中心となる。

いま、マンガ業界は、パソコンやスマホで読める無料型プラットフォームが破竹の勢いで人気を集めている。

「タコピー」を輩出したジャンププラス。「僕ヤバ」のマンガクロス。etc...

弊TLでは、みながWEB作品の更新を楽しんでいる光景が当たり前になった。

雑誌に連載されてる漫画よりも、オンラインで読める漫画が多く語られるように時代が変わった。

アプリのCMでは、あまり有名ではない漫画がプッシュされ、人気漫画が全編期間限定公開されるなど、完全に漫画シーンの形状が変わった。

そして時代の寵児、「チェンソーマン」ですらジャンププラスに移った。

それほどWEB漫画は漫画読みには軽視できない巨大産業へとモリモリ盛り上がったのだ。

発端は、コロナ禍とかスマホの大型化など・・・だろうか。

そこで、僕は「その先」を見据える。

それは「ジャンプルーキー」「マンガ図書館Zの存在だ。

これらは、アマチュアが自作を自由に投稿できるプラットフォームだ。

人気を得れればジャンププラスに転載されたり、収益化されたり。

マチュア<すなわち一次創作同人漫画界>には、自作をイベントで売るより、WEBで発表する波が徐々に訪れているのは確かなはずだろう。

コロナ禍による同人イベントの縮小化や、現地頒布の難しさがたびたびに難しくなった現在。

同人も商業もグラウンドはネットという同じリング。

しばらくすれば、アマチュアのWEB作品が、プロの作品と対等にしのぎを削る時代が訪れるに違いない。と予言めいたことを僕は言いたい。

とにかく時代は変わっている。

pixivのアマチュアイラストレーターでさえ課金して全部が読めるよ!と喧伝されるのが当たり前になっているし。

二次元モノの、業界の新陳代謝は、裏ですごいものがうごめているに違いない。


ちなみになんですが、僕の作品もジャンプルーキーに投稿したので、よんでね。

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『Ζ・刻をこえて』時代の転換期に聴きたい一曲

ここ数年に起こった、ウクライナ侵攻、コロナウィルス、衆院選、そして参院選という時代の転換期。

そのたびに、ぼくには、聴かずにはいられない一曲があった。

それが『Ζ・刻をこえて』

機動戦士Ζガンダム」とは、まるで不可解なオーパーツのような作品である。

放送当時の世相は、ソビエトのアフガン侵攻。

Ζガンダムの放送一年後のアメリカ・ハリウッドでは、『ランボー怒りのアフガン』という、タリバンを称える迷作(?)が作られたりもしていた。

そんな時代に、地球連邦内部の紛争―エゥーゴVSティターンズVSアクシズ―を描くという、これまた不可解な構図で作られたストーリー。

現代の視点から見れば、対テロ戦争を思い起こされたり。カール・シュミットの、グローバル社会における「世界内戦」を思い起こされたり。ネグリの「帝国とマルチチュード」を思い起こされたり……。

当時は、「ガンダムセンチネル」で“幕末に似ている”と評されたりもしていた。

たいへんマルチな見方で味わうことができるアニメなのだ。

いったいどんな企画で作られた作品なのか…知る由も無い。


そして本筋。『Ζ・刻をこえて』

ズッダン!ダン!ダン!ダン!と鳴るドラムロールと、フラメンコギター。まことに軽快なリズムに合わせて、時代というものに焦点を当てる一曲。

これはもう、言わずとも、クワトロ時代のシャア目線の一曲だ(カミーユ視点でも、当時の富野監督のアニメ制作の辛さ視点にも捉えることができるけど、それでも僕にはクワトロの曲にしか聴こえない)。

この曲のすべてのヴァースは、「Beyond the hard times from now(今のハードな時代を乗り越えようぜ)」に集約される。

まさしく、シャアがアクシズを抜けてクワトロを名乗りエゥーゴから人類を変えようとする野心の歌そのものである。

時代の危機に直面したクワトロの野心が、軽快なリズムと共に鳴り響くプロテスト・ソング。

まだシャアがアクシズを落とすほど人類に絶望してはいない歌だ。

ニヒリズムはあれど、シニシズムがない歌だ。

そして、とくに、“人を変えてゆく”という歌詞はヤバイ。

他人を変えることなんて絶対あり得ないことじゃないか。それでも変えようとするポジティブな野心と若さが溢れ出してる。

すげえ辛い出来事がニュースに流れてきても、この一曲さえ聞けば、クワトロの<野心>のもとに時代をポジティブに捉えられる名曲に違いないのだ。

個人的な話だが、ぼくは辛いときには「stand up to the victory」と「Gの閃光」を聴くけれど、それ以上にこの歌の、ニヒルなポジティブさはすごい。そしてカッコイイ。

“今を見るだけで悲しむのやめて 光に任せ取んでみるもいいさ” というニヒルなポジティブ。

混迷を極めた宇宙世紀の転換期。その、クワトロ時代のシャアの たくましい理想と願望が集約される歌詞。

チマチマひとつひとつ歌詞を語りたいが、ハードな時代のポジティブな乗り越え方を、こう、ストレートに伝授されてしまえば、腑に落ちざるを得ない。

時代に絶望した時に聴きたい曲。時代に心を沈められた時に聴きたい曲。それが『Ζ・刻をこえて』なのだ。

デジタルアニメがもたらした青空の世界

ちょうど「ブギーポップファントム」をDアニメで観てた。

ちょー陰険な演出が冴え渡ってる。暗い。とにかく暗い。

本作はセルアニメだ(時代の過渡期でデジタル機材も使われていると思うけど、セル画が流出してたので、そう認定)。

そして、ブギーポップは2019年にもアニメ化された。

しかし、あの独特なセルの暗さを感じることは一切できなかった。

なんか空の色もきれいだし。ジメっとした暗さはない。そもそもメインビジュアルで青空すら描写している。


金曜ロードショーで何気なしに「時をかける少女」を観る。

これは青空がすさまじく明るいアニメだ。ポストエヴァみたいな衒学をこねるつもりはないが、この2006年ぐらいから、日本のアニメは“明るく”なった。

ポニョ、ハルヒ、ギアス(青空の下で戦うシーンの多い異色のロボアニメ)、ストライクウィッチーズグレンラガン、禁書、とらドラけいおん!、etc...

徐々にデジタルが「明るい風景」を描くのに適切で、それで作品の解像度が上がる制作方法だと分かっていく。

それは、やはり時代が求めてそうなったのだと持論を述べたい。

ウォーターボーイズとか、木更津キャッツアイとか、純愛モノブームとか、ロキノン系だとか、それらがウケはじめたのも、90年代の暗さをふっとばすためだったのかもしれない。

ゼロ年代の想像力」(長くてほとんど読んでないが)のレビューでは、「ゼロ想」は90年代から続く世界をリセットして、解き放たれるためにかかれた書。みたいな記述を見た。

そして現在2022年。このデジタルの青さを追求して様々な作品が作られていった。君嘘だとか。君の名はだとか。

90年代をリセットする、アニメ界のトリガーは、やはり「時をかける少女」でしかないと僕は思いました。

追記

暗いアニメの張本人、エヴァの新劇場版もこの「明るさ」の流れに逆らえなかった。
エヴァ破」だ。エヴァ破のあの青空を見れた限り。ぼくは“エヴァが殻を破った”という爽快感を感じていた。