大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

ネットスラングと社会ダーウィニズム

 最近、Twitterとかユーチューブで散見される、なんだか、シャクに触るような言い回しがある。

具体例をあげる。「性癖」の意図的誤用。「擦る」の意図的誤用。「◯◯くん」。といった言葉。

 言語体系というものは、もれなく淘汰の上に成り立っている。

日本の標準語さえ、地方の方言を蔑ろにして、東京一極集中主義を掲げる政治の力でゴリ押しされた、日本列島数多の方言の死骸の上に立つ強者の言語だ。
 
それはネットスラングでも変わらない。下世話な淫夢語録がネットに蔓延るのも、淘汰圧がそうさせた必然だから、いちいち目くじら立てても仕方ない。

社会ダーウィニズムの必然。文句を言ったって、誰も止めることは出来ないのだから。

 しかし、ネット社会という、文字のコミュニケーションに特化した力場は恐ろしいもんで、日々、とんでもない加速度で、新たなスラングミームが生まれる。

思ったことを即座に文字にして殴り書く、書き手。短い文章しか読めない、読み手。そんなSNSの場は、書き手/読み手の両者とも、常に思考をバイパスする言葉を欲求する。

 例えば、笑ったことを「草」と表現する風潮が支配的なのは周知の通り。

だけど、「◯◯で草」という言い回しは、「〇〇で笑った」と意味合いが決定的に異なる。

「草」の用法。それは、笑ったことに至るあらゆる思考を省略して、多くの人間が共有している「草」という共同幻想に、省略した自分の笑った気持ちを仮託する時に使われる。

よって「草」は、笑うという意味を持たない。「草」は「みんなもそんな感じに笑えるよね」という含意の言葉なのだ。

 「性癖」も「なんかえっちぃよね!」を短縮した幻想。「擦る」も「繰り返しすぎてうざい!」を短縮した幻想。積み重ねられた幻想が、人々の間で空気として醸成され、個々の脳の思考回路を蝕み、社会を変える。

「◯◯くん」なんかに至っては傑作だ。もともと「◯◯くん」という言い回しは、真夏の夜の淫夢用語で、「観葉植物くんオッスオッス!」「淫夢くんオッスオッス!」から更に淘汰圧を受けて、今では淫夢も一切無関係な文脈で、なにかを小馬鹿にしたい時にしばしば使われるものになった。

 そんな、ネット社会の力場が中心の、近年のEスポーツ界隈においては、不謹慎発言が騒がれるのも当然だろう。なにせ言語のスピーディーさを求められるゲーム実況は、即応性のある言葉遣いが必要だから、厳密さを求められるコンプライアンスやポリコレなどと衝突するのは当たり前の話だった。

 言葉のバイパス。それはネット上のやりとり のみならず、ちかごろはフィクションのタイトルにも行使されるようになった。

いわゆる、タイトルで、「この作品はこういう物語です」と説明するタイトル。ネット小説や、ネットのショートマンガに多いヤツ。特定作品をけなしたいわけじゃないし、面白い作品もあるので、具体的には挙げないけど。

さらに、その即応性が加速して、Twitterの「#マンガが読めるハッシュタグ」では、「◯◯が◯◯をするマンガです」と、タイトルの代わりにシチュエーションをハッシュタグの前文に載せてバズりを狙う手法も増えた。

 そういう作品がヒットしている現実が横たわっている。

「説明文タイトル」の作品はあくまで説明文が全てじゃない。説明文に引っかかった読者を更に面白がらせる内容が秘められてるから、フックとして「◯◯が◯◯するマンガです」と言い回すのが、マーケティングとして有効。それを見積もって、みんなそうしていると思われる。

しかし、フィクションぐらいは自由形・フリースタイルで行わせてほしい。フック=読者に分かりやすい前提条件の提示。そればかりに拘泥した作品が優先的に人の目にとまるのは、嫌だと思う。…だが仕方ないかな。それも社会ダーウィニズムが要請しているのだから。


 ネットの殴り書きの言葉遣いひとつですら、ダーウィンの弱肉強食の生存競争原理がはたらく。

この原理が、人々の思考回路を、人々が享受するフィクションを、人々が生きる社会を変えていく。

それは、人間が無意識下に、無駄なものを淘汰して、強いものを生かす。生存競争こそが脳の構造だという証左でもあるのか。