大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

なんか仕事でVtuberに関わるっぽくなったSF者の所感。

ぼくは、『マトリックス』におけるザイオンが現実じゃないと「匂わせ」程度で終わったマトリックスの1作目が好きだ。

続編すべてつまらん。続編はザイオンが現実だと決めつけられているからだ。

ザイオンが仮想なら、まるでイーガンとかディックみたいな広がりがある世界観になって面白いのだ。

ここでノーランの『インセプション』が頭をよぎる。

インセプションはすべての階層が仮想現実みたいなことを、匂わせるどころか、明らかにそういう意図を持って終わる映画だ。

しかし、インセプションは、マトリックス、そして『攻殻GIS』に至るような、実存を問う映画ではなかった。

というより、インセプションはこの世界が嘘であることを全員気づかずに終わる映画だ。すごく画期的な映画だと思う。

近頃、世間がメタバースがなんやらとか言ってきやがるが、もうすでに19世紀末以降の産業革命から世界は仮想現実になっているんだと思う。

いや、俺は頭のおかしいことは言っていない。まだ読んでくれ。

すでにこの世界はインセプションなんだ。

たとえば黒沢清の『CURE』は、刑事役の役所広司に向かって、「仕事のあんたと家庭のあんた、どっちが本物なんだ」と萩原聖人が問うた。

19世紀末以降の工業化された社会において、仕事というフィールドと家庭というフィールドは切り離された。

もはや吉本隆明の『共同幻想論』まで、メタバースについての考え方は遡ることができる。

我々は映画CUREのように、いろんな顔を持って、いろんな「幻想」社会に生きている。

ネットでチ○コだマ○コ言いながら女叩きしてるヤツは親の前でそんなことを言えるはずない。

家庭のフクザツな事情をネットに開陳するのもはばかられるし、オタクたちは「名無しさん」だとか「アニメアイコン」という仮面をかぶる。

汚言症のオタクがVtuberにスパチャ送るとき、妙に丁寧口調になる。「対幻想」が表出される。

スマホという数センチの板を使用するだけで、我々は様々な貌を持つことができる。

我々はすでにメタバースに迷い込んでいる。それこそマトリックス冒頭のネオになる前のアンダーソンのように。

マトリックスの続編はクソと上述したが、続編を重ねることで、ネオは仲間たちと共有している共同幻想メタバース世界線を信じている。

ネオは仲間を信じることで、確固たる自我を得ていたのだ。

モーフィアスが誘ったザイオンという世界が仮にウソモノだとしても、ネオはモーフィアスと仲間たちを信じてザイオンが現実だという地に足をつけたのだ!(でも映像としてツマラン)

ゲーム『デス・ストランディング』は云う。世界は繋がるべきだと。

友達がいない人には申し訳ないが、仲間で共有できる幻想こそが現実なのではないか。

カントの自由意志についてググって調べてた頃に、「人間に自由意志はないけど自由だと振る舞う矜持が必要」みたいな文章を見た。

いまこそ、仲間というもののありがたみを感じるべきじゃないか。

ワザとセンセーショナルな記事名にした理由

Vtuberオタクたちに読んでもらいたかったからです。