大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

陰謀論がたとえ真実だったとしても陰謀論を信じてはいけない話。

きょうは8月12日。

何かとは あえて言わないが、この日は毎年、色々と陰謀論まことしやかにささやかれる日である。

私は かつて『陰謀論とは無自覚な悪』『陰謀論は、善人が、嘘の情報を、よかれと思って風説する現象』だと断じた。

百歩譲って、陰謀論が真実だったとする。

しかし、それが真実だとされても、流布してはいけないのだ。

社会には秩序というものがある。

秩序は絶対に守らなくてはならないものである。秩序を守らなければ社会は成り立たないからである。

社会で生きる人間は、遵法精神の前に、一般道徳/常識レベルで、秩序を守る意識を自発的に持たなければならない。

法律や一般道徳や常識で「正しい」と結論付けられたものは、無条件に正しいと信じる。これは、社会という秩序の中で生きるものの義務である。

よかれと思って、法律/道徳/常識を逸脱する情報を発信する場合。その「よかれ」は、たとえ真実だとしても、秩序から逸脱すれば、もれなく絶対悪になると思っていい。

もし、真実が隠匿されることで不利益を被っている場合。まずは法的/道徳的/常識的な手続きをもって改正しなければならない。

インターネットで、その真実の流布を行っても、草の根の活動ごときでは、法律/道徳/常識を変えることはできない。

正しい手続きを経て真実を糾弾しなければ、「秩序を乱す」という新たな悪を生じさせるだけだ。

この社会では、法的手続きを経て、上訴を行う権利は万人にある。

社会が定めた、その権利の内で、正しい真実の追求や啓蒙を行われなければダメだ。

秩序を乱せば、善意は、無自覚な悪意に陥るのだから。