大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

アニメ漫画におけるフーコー

まず開口一番に話したいのは『ガンダムUC』です。個人的にガンダムシリーズで結構好きです。かなり強度のある話だと思ってます。

めっちゃ拾い画像で申し訳ないんすが、これはラディカルな社会学の真意を突いている台詞だと思います。

スペースノイドアースノイドとの軋轢は、当初は地球環境を守るため、人類を宇宙に上げた善意から始まっていると、ダイナーの主人は語っています。

そしてジンネマンは、善意が生んでしまった軋轢に苦しむ男です。このジンネマンの台詞はEP4すべてを集約する言葉でしょう。

コードギアス』のルルーシュ・ヴィ・ブリタニアも同じ軋轢を見てきました。



ルルーシュ「皇帝シャルルは『昨日』を求めた。 あなたは『今日』を。だが俺は、『明日』が欲しい」

シュナイゼル「明日は今日より悪くなるかもしれない」

ルルーシュ「いいや、良くなる。例えどれだけ時間がかかろうとも、人は幸せを求め続けるから」

ルルーシュ「俺は何度も見てきた。不幸に抗う人を。未来を求める人を。みんなが幸せを願い、抗い続けた」

ルルーシュは、当初は母の仇と、弱者のためと、ナナリーの求める優しい世界を作る、という簡単な動機で行動を起こしていたんですが、何度も打ちのめされ、逆境に合い、薬物中毒者になりかけたり、無差別殺人テロを自分勝手な理由で行ったり、ものすごい情緒不安定になるくらい打ちのめされて、この考え方にたどり着きました。

えてして、コードギアスを超展開とか、全員クズとか、キャラがAパートに言ったことをBパートで忘れるみたいな批判を見ますが、だとしても谷口監督と大河内シリーズ構成も何か芯のある―ラディカルな―一本調子の信念を抱いて描いた作品だと僕は思ってます。

それはさておき、現代の人類は不当な暴力をしてはいけません。これはフーコー的に言えば「生政府」、生きる事が尊重された世界が最もまっとうであるという世界観です。

ゆえに現代ではテロ行為という無法をしてはいけません。

ルルーシュも、最期はフーコー的に平定された議論のテーブルに世界を付かす目的で殉教しました。それがたとえ中二病的ナルシズムだとしても。

PSYCHO-PASS』では常守朱も第一話から様々な事件に関わって、終盤、彼女なりの、無法でない「法」のありかたを見つけました。

友達を殺められ、何度も敵・槙島聖護を殺すタイミングがあったけど、槙島聖護を、無法のもとでは殺せなかった常守朱

独白のシーンを重ねながら、彼女は最終回、一つの信念を見出しました。


「法が人を守るんじゃ無い。人が法を守るんです」

「これまで、悪を憎んで正しい生き方を探し求めてきた人々の思いが、その積み重ねが法なんです」

「それは、条文でもシステムでも無い、誰もが心の中に抱えてる、もろくてかけがえのない思いです」

「怒りや憎しみの力に比べたら、どうしようもなく簡単に壊れてしまうものなんです」

「だから、よりよい世界を創ろうとした、過去全ての人達の祈りを、無意味にしてしまわないために」

「それは最後まで、頑張って守り通さなきゃいけないんです。諦めちゃいけないんです」

第二期でも常守はこの信念のもとに犯罪と戦っています。

しかし、ここで立ちはだかってくる漫画があります。

鬼頭莫宏先生の『なるたる』と『なにかもちがってますか』です。




『なにもち』のイッサくんはショタカワイイところもあって好きです。

主に鬼頭莫宏作品では、ルールを守れない人間は悪だと断定しています。

一番上の漫画の『なるたる』では、ゴミをポイ捨てしただけの人たちを須藤直角くんが銃で射殺して警察に取り調べを受けていたシーンです。

PSYCHO-PASSの台詞と、鬼頭莫宏作品の台詞を比べると、どちらも一理あるように見えますね。

どちらもガンダムUCの「善意」的なものから始まっていると思ってます。軋轢です。

「越えてはいけないライン」を穏やかに諭すのが常守で、真っ先にラインを超えた奴は殺していくのが須藤やイッサくんの考え。

ゆえに、常守は、上述の信念を持ってしても、1期最終回ラストシーンで、かたき である槙島聖護を殺す狡噛慎也を止めることはできませんでした。

きっぱり言えば常守朱は、須藤直角を殺せません。それは違法だからという絶対的根拠に常守は置かれているからです。

須藤直角は、自分が人を殺してまでルールの違反者を殺したのに、「竜の子」というスタンド能力で警察よりも強い武力を持っているのですから、開き直ります。

警察にも、「君も同じじゃないか」と言われたにもかかわらずです。

それでは、より強い武力を持つものが正しいという法になってしまうことになります。

かつてアメリカ合衆国は「世界の警察」でした。強い者がルールを作ると。しかし今年初頭に、アメリカ軍はアフガンから撤退しました。そして現在ロシアとウクライナは「どっちが強いのか」で正義を比べ合いっ子しています。

ジョジョ』では、こういう正義も一理ある。と考えられているのでしょう。私利私欲を悪として、「吐き気を催す邪悪」を描いていた荒木飛呂彦が、7部で「漆黒の意志」を描いていたように。

そして、『沈黙の艦隊』という漫画。

かわぐちかいじ先生のミリタリー作品は、必ず「専守防衛」という言葉が出てきます。

そして、これを譲ってはいけないと考えてます。

9条論議でもありますが。ある意味、そういう考え方は、武士道やプライド、矜持に近い考え方なんだと思います。自分たちの国がそう言い続けるからそう言い続ける。

それは「美学」の問題なのでしょう。

しかし、美学を訴えた三島由紀夫は討ち死にしてしまいました。

やはり力…力こそ正義なのでは………

力を持つ人間が、このようなフーコー的な考えに到達できれば、一番よいのですがね。

しかし、改革者である『ガンダムUC』におけるフル・フロンタルは暖かさのない虚無を持ち、『PSYCHO-PASS』のシビュラシステムには、「従うに値しない法を作ることが悪」と言ってもせせら笑われました。

globe.asahi.com

このような問題を取り扱った『銀河英雄伝説』については、一方的にブロックされたフォロワーが好きなものなので、中学の時に読んで以降、再読できずに居ます。ふざけんじゃねえよ。なので記事のみで割愛します。

長々と話した記事になってしまったのですが、アニメ漫画フィクションにおける善悪のありかたを覚え書きしたかったので書きました。

常守朱の正義や、専守防衛というルールを守ること(9条が善なのか悪なのかを問わず、ルールだから守る)というのは、あながち間違っていません。

しかし、それで殺される可能性もあるわけです。難しいですね。でも三島みたいに切腹するのも美徳というか…。

最後はこの男、アムロ・レイ大尉で締めましょう。


「世直しのことを知らないんだな、
革命はいつもインテリが始めるが夢みたいな目標をもってやるから、
いつも過激なことしかやらない
しかし、革命の後では気高い革命の心
だって官僚主義と大衆に呑み込まれていくから
インテリはそれを嫌って世間からも政治からも身を引いて世捨て人になる だったら・・・」

この台詞、現状維持するしかない諦観が入ってると思うですよね。その諦観はシニカルなものではなく、自分なりの根拠に根ざした正義感として感じられます。