大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

死というもの

僕はいま、「死」をいちばん恐れている。

Twitterで「あなたの人生の残り時間」みたいな、年齢を入力すれば残りのあなたの残りの人生は○○年~○○秒ですと表示されるやつをやった。

二十代後半だが、もう1/4は過ぎてた。

僕は漫画家志望のワナビだから、表現したいものがたくさんあるけど、持病のウツで、どうにもこうにも筆が乗らない時がある。

たった8日間で描きあげたと あとがきに残してある、滅茶苦茶絵に手を加えまくってる同人誌(薄い本)を買ったこともある。

僕の原稿は1月末から描き始めて32ページ中2ページしか埋まってない。これが現実だ。今年のコミケコミティアも無理だろう。

僕は、Twitterの寿命チェッカーを見てからというもの、常にキリキリした状態で生きている。

僕は人生であと何作の漫画やイラストが描けるのか。

これは、手塚治虫やなせたかし も味わった感情である。

2013年。やなせたかしが自分の死を直感して、90代にして「死にたくねえよ、なんで死ななきゃならないんだよ」とこぼしたのをよく覚えている。

僕の祖父祖母は存命だが、ボケが激しくなってきた。この前会ったらそれがリアルに感じた。

ボケとは、死への恐怖への防衛機制だと思う。

とにかく、どうでもよくなる。生活の些細なこともどうでもよくなる。そういうふうに、すべてをどうでもよくなるように思うことで死の恐怖から目をそらせるのだと思う。

フィクションの話をしよう。

コードギアス反逆のルルーシュR2」最終話で、ルルーシュはこう言った。

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シュナイゼルの「明日は今日より、悪くなるかもしれない」に対して)
「いいや、良くなる。例えどれだけ時間がかかろうと、人は幸せを求め続けるから」

と。

このセリフは僕を自殺から救った。救いようのないくらいド鬱病の時に、たまたまこれを観て生きていこうと思えた。出会いは不思議である。

そしていま、僕は死んでしまった従兄弟の兄と、高校の頃から拾って、もう死んでしまった猫のことを思い出しながら泣いている。

死というのは、あまりにも唐突すぎて、その時味わったショックよりも、後年になるにつれ徐々に欠損した心の欠片が痛み始める。

そして、急に感情のセキが崩壊して、ボロボロと涙の雨粒として目から落ちる。

「なぜ、おまえがここにいない?」

僕は泣きながら実家のお母さんに電話をしたが、お母さんは死んだあの子もあの子も天国に行ったら絶対会える。と言った。

塹壕無神論者は居ない」とは第一次大戦時の有名な言葉だ。

僕はよくTwitterで非論理的な、スピリチュアル的な、インボー論じみた話を否定している唯物主義者だ。
それでもやはり、死という突拍子もない物事には天国とかの存在を信じざるを得ない。

人は死に向かっていく。いつか貴方も僕も死ぬ。

しかし、死んだ先―天国か―でまた会えるような人たちがいるなら。

ルルーシュの「明日は今日より良くなる」というセリフに繋がって。いま呼吸をしているだけでも、先に逝っちまった奴らに会いに行ける旅の途中に自分は居ると思わせてくれる。

アスタラビスタ・ベイベー(地獄で会おうぜベイビー)ってヤツだ。かっこいいだろう。

生きてる間に自分が漫画家として大成しなくても、あの世で会いたいやつがいる。

あの世の奴らは、僕たちよりも先に未来に行って生きているんだ。天国という未来の土地に。

今ブログで執筆してるうちに、ちょっと死への恐怖が収まった気がしました。

以上、雑記でした。