大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

「他人に期待するな」と「人は一人では生きられない」のパラドックス(微修正版)

「他人に期待するな」 「人は一人では生きられない」

このふたつの言葉は、おおむね「公正世界信念」に組み込まれる、道徳的な言葉です。

しかし、この二つは聞いての通り矛盾している言葉です。

このテの話は中島義道の本に詳しく書かれてるのですが、私の言葉で言います。


前者は、他人に期待せず自力で不安を取り除く強い心のリカバリーを説いてます。

後者は、他人を期待して他力本願で不安を取り除く弱い心のリカバリーを説いています。

どちらが正しいのかは判りません。どちらも正しくないのかもしれないし、どちらも正しいのかもしれません。両立しているのかもしれません。

まるでポスト・トゥルースオーウェル二重思考そのものです。

これは果たして何なのか。

現実としてこのケースを鳥瞰しましょう。


―――かつて、古代人から「他人に期待せず」狩猟生活をおくる民族と、「他人同士で互いに生きる」農耕民族がおりました。

やがて狩猟生活を送る人々は滅んでしまいました。
「他人に期待しない」人たちに「一人では生きられない」人が勝利したのです。そして我々は、その農耕民族が築いた社会の上で生きています。

端的に言えば、農耕という集団作業の出来ない人間は駆除されたということですね。

ということで、「他人に期待しなければならない」というロジックが支配的になっています。

個より多の方が強いということです。当たり前ですね。

よって、他人から期待の見返りがない場合ソイツは死ぬしか無いということです。

残酷ですが、これは人類ウン億年の歴史が物語った大いなる真実でした。

さて、ここに民主主義の欠点が暴かれてますね。

公正世界仮説と民主主義<つまるところ我々の常識>がペッタリ裏付けあってます。

新自由主義の競争社会はまさに個を蹴落とす農耕民族が発展させた生活

対抗する手段は外山恒一的なブランキズムのみでしょう(ぼくは個人的には無理だと思ってますが)。

あとは殺されないように一人で生きるか。というわけです。


―――しかし、この世界で孤独な人間などどこにも居ません。

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ニートはママからのオマンマをもらって食いつないで、不具者や浮浪者や高齢者は社会保証で生きていけます。

繋がってないようで、繋がり合っているのです。

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人類の歴史が、他人と依存する社会を形成していったことも、そこに入れない奴が蹴落とされることを物語っても、どっかしら繋がってるわけなのです。

ここにコペルなんちゃら的転回が起こります。

農耕時代は違ってたかもしれませんが、いままで発展してきた民主主義と公正世界信念は、個を蹴落とさないように形成されてきたのです。

なので、絶望するのはやめましょう

そして、他人を絶望させるのはやめましょう

そう考えてます。ぼくは。