大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

漫画版「プラネテス」

高校以来の再読。アニメ版の内容は忘れてしまったし、ウチにテレビないから再放送見れないので原作ということで。

この漫画の内容はSF宇宙モノではなくて鬱病寛解のプロセス+α。

ハチマキは、読む限りでは躁うつ病の傾向が見受けられる。

平常状態から、怒りに至り、放心されるが、最後は人格が丸くなる。これは躁鬱の病態と全く同じである。

これを1巻、2巻、3巻から4巻まで区切りよく描きつくす。

・・・のだが、タナベという存在が居なかったらハチマキの躁鬱の寛解は無理だったと思う。

それか、3巻で全裸になってハチマキとやろうとしてた女性クルー。

その女性クルーに抱きしめられてハチマキは放心状態から寛解する。そして、理解ある彼女であるタナベと結婚する。

鬱病童貞ボーイの読者には3巻からのハチの寛解に嫌味を感じると思う。

4巻からのフィーさん関連の話は面白いけど、4巻のハチマキがまるで別人格のように丸くまん丸くなる。

僕は父も鬱病で、今「丸くなる」期間になってるけど、4巻で帰結したハチマキの様態は果たしてこれでいいのかな。

1巻の、鬱に掛かる前の、髪にベタがないギャグ顔で笑いあったりするハチとは、やっぱり変わって視えてしまう。

そして「気安く愛を口にするんじゃねェ」のロックスミス

最後に彼は、多くの犠牲の元で木星ロケットを作り、牧師にその心情を伝える。

タナベ、ハチマキの「愛」と。ロックスミスの「愛」は違う。

開発で人材を失った重荷を、神の座に坐って見るしか無いないという「真の愛」を、ロックスミスは抱いている。

ハチマキの成長ドラマの横にあるロックスミスの心境。

こういう物語が差し込まれるのはとても良いことだ。この漫画が、やや純愛原理主義でないことを示している。

「気安く愛を口にするんじゃねェ」に共感する「愛を知らない童貞的な読者」は、目線がよりロックスミスに近いと思う。

ゆえにこの作品は人を選ぶ。

愛を知った経験を持つ読者と、愛を経験してない読者。

僕は一応前者でもあったけど、どちらの視点で鳥瞰しても、やっぱり「読者に伝わってくる愛」の描写がないことが問題だと思う。

キスや泣かせるセリフを言わせても、なにか「タナベ・ハチマキ的な愛」が上手く届いてこない。

「愛」というキーワードはあまりにも曖昧すぎる。

「愛」の本質を現実で追求していたマックス・ヴェーバーにおける「合理性」という論理では、自分の殻を破って共同体に善意で参画し、そこで社会を動かすことが合理的だとされていた。

ハチマキは、自分からアクションを起こさず、結局タナベの手で救われて、躁うつ病寛解させただけだ。

擁護できる点は、1巻のユーリと会話するネイティブアメリカンの「ここも宇宙じゃよ」と、ユーリがハチマキの弟のロケットに形見を飛ばすところ。
そして2巻ラスト自転車で海にドボンするところで、「みんな繋がってて宇宙じゃないか」というところ。

まだ童貞的な思考でいる僕は、「愛」なんかなくったって、「この宇宙でつながっている」というテーゼだけで良かったと思う。

だけど、現実世界の躁うつ病とは、それだけでは解決しないから、妥協と言っては失礼かもしれないけど、「他者と愛し合うことでハッピーエンドになる」とオチが付いた。

「人は一人 逃れようもなく だから先生 クスリをもっとくれよ」
Sonic Disorder / syrup16g