大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

伊藤計劃は、古典になってしまったのか?

ファイトクラブマトリックス懐疑論オルタナ右翼だ。」

こういう言説が、どうやら常態化されつつある。

われわれ、伊藤計劃をキリストのごとく崇めている、伊藤計劃に人生を狂わされたボンクラーズには、あまりにも痛い、痛すぎる指摘である。

痛点をド突き回されるくらい痛い指摘だ。

ファイトクラブ』『マトリックス』、それにアメリカ人では見てない人はいない、といわれている『ボーン・アイデンティティ』も含まれるだろう。「いまここにある現実を疑う」映画。

こういうものは、オルタナ右翼・トランプ派を助長していると言われているのだ。

確かにそうかもしれない。

僕がフォローしている左派系知識人も、それら映画の悪影響を語っていた。

反論しようとツイートをしたが、消去した。どうにも反論の余地がないからだ。

僕は「ファイトクラブマトリックスジョジョドラゴンボールみたいな少年漫画的マチズモが根底にある」と主張したかったが、タイラー・ダーデンやネオは、そういうキャラクターじゃない。

タイラー、ネオ、ボーンは、確かにマッチョ・アイコンなんだけど、彼らは常に現実を懐疑し続けるキャラクターである以上、空条承太郎孫悟空とは違うレイヤーにいるキャラクターになる。

生前の伊藤計劃氏は、こういう懐疑主義的な作品を大いに賛美していた。

そして、我々伊藤計劃モノも、そういうシンパシーに惹かれて、虐殺器官やハーモニーを読んで、人生観が変わった。

伊藤計劃氏はゼロ年代の人間であった。2020年代のいまに生きることができなかった。とても儚い存在である。

伊藤氏がブログで語っていたレンジは、9.11とイラク戦争の時代のまま更新が止まっている。時計が止まっている。

かれは、いち実業家のトランプが大統領になると考えていたのだろうか、そして、オルタナ右翼の誕生や分断されるアメリカを予想できていたのだろうか。

もう、その問いは永久に判らない。

しかし、彼はファイトクラブマトリックス・ボーン他の映画を、社会を、形而上学的にフカヨミさせてくれる心の師匠だった。

その「深か読み」は、決してオルタナ右翼や分断社会の方向とは全く異なる価値観の意見で、ミームをブログに残していた。

それを信じて僕らは生きてきた。

それを信じて生きてきた僕らは「オルタナ右翼」なのか?

違う。断じて違う。全く違う。違うに決まっているだろう。と僕は叫びたい。

そもそも僕らは日本列島に住む人間だ。北米大陸やヨーロッパの人間ではない(大多数が)。

日本のネトウヨも、まだ「懐疑論」的な映画を持て囃すレベルの知性はない。

まだ我々は、客観的に、伊藤計劃マインド的に、あの映画たちを見れる余地が残されている。

ゼロ年代のあの映画たちを「なーんだこの映画、Qじゃん」と投げ捨てずに、まだ読み解け。

その矜持を持て。

そして、己を信じろ。

伊藤計劃の遺したミームを、弁証法的に、脱構築的に、思考をフルに、考え続けろ。

信じるものは自分で探せ そして次の世代に伝えるんだ(ソリッド・スネーク