大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

イライラした世界「アメリカン・サイコ」

またまたまたまた「ファイトクラブ」と「マトリックス」問題。

どうやら海外のオルタナ右翼は前述二作に加えて「アメリカン・サイコ」にも悪影響を受けているという噂をネットで耳にしたので観た。

最近の僕は、ウクライナ戦争のバックボーンにもあるオルタナ右翼の思想について興味がめちゃくちゃある。

しかしこの映画、まるで哲学書の原著の翻訳を読んでいるような訳のわからないくらい難解すぎる。

町山智浩の解説を300円で買ってやっとオオスジは理解できた。

序盤は主人公ベイトマンに観客を自己投影させて(タイラー・ダーデンやネオのように)ウォール街WASP同士のマウント合戦を体感する映画だった。

むちゃくちゃ魅力的な金持ちヤッピーたちの社交界。仕事してんのかしてないのかよく分からん仕事をしながら安定した生活で充実のライフを送るバブリーなビジネスマン。

このあたりは「ファイトクラブ」にあからさまに対比されている。

「金はいらない」方面に全力疾走するファイトクラブと、「金が全てだ」に全力疾走するアメリカン・サイコだ。

金が全てに走ったせいで、もう、出口を失ったベイトマン。彼は憎たらしいやつを計画的な殺人することでイライラを晴らすという出口を求めた。他者を殺すことで生きてること(安心)を確認する。

ファイトクラブの、金はいらない、肉体と仲間意識こそが全てだ。自分を破壊して生きることを確認しろというタイラーへのアンチテーゼだろう。

だが、徐々に、ベイトマンが包丁を選んだりするシーンぐらいから、ジャパニーズサイコサスペンス映画みたいに「隣人の恐怖」を味わう映画に変貌していく。

この恐怖感は「ノーカントリー」のシガーに近い。

フルチン・チェンソークリスチャン・ベール・ベイトマンは、笑えるけど怖い。

イライラをぶつけられる側には、他人のイライラが恐怖でしか無いということが啓蒙的だと思った。

しかし、物語が佳境に入るとベイトマンを取り巻く世界が、夢の世界なのか現実の世界なのか区別が曖昧になっていく。

ここで多数の観客は意味不明理解不能に陥る。・・・のだが。

同時にオルタナ右翼特有の「懐疑主義」が発生する。ネオやファイトクラブの ぼく が感じたような世界観に変わる。

もしかして夢オチ?それとも本当にあった殺人?という、曖昧さに片足を突っ込むわけで。

この映画の恐ろしいところは、夢オチ・事実オチ、両方正解の世界に到達してしまう点だ。

夢でも同じ、事実でも同じ。観客もベイトマンすらも何を信じればいいのかわからなくなる。ラストに来て、「マトリックス」の序盤のアンダーソン(ネオ)と同じ認知の歪みを生じさせられるのだ。

ここが、オルタナ右翼の共感ポイントなのだろう。

オチが2つある世界。マトリックスの赤いカプセルと青いカプセルの世界。

しかし、マトリックスはモーフィアスの導きがあったからネオは救われた。

だが、ベイトマンは救われない。出口のないWASPイラつく金持ちマウント合戦の世界で永遠と生きるのだ。

自分が他人よりお金持ちじゃないと幸せになれない落とし穴に落下する。

果てしなく続く競争社会のサバイバルレースに疲れ果てたオルタナ右翼の共感ポイント。

やはりベイトマンは、憎たらしいやつを殺しまくる、イライラした世界から逃れられないのだろう。

なぜなら、今の世界は資本主義という競争社会なのだから。

イライラした世界なのだから。

余談

しかし、伊藤計劃はなぜ生前アメリカン・サイコ評をしなかったのだろう・・・。

虐殺器官のアトモスフィアと近いモノがある映画なんだけどな。