大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

デジタルで描いた絵は、芸術品たりうるか?

まず、当方 芸術館には中学の課題と、障害者手帳で一度か二度訪れたぐらいの浅学だ。という予防線を張っておきたい。一応。


さて、pixivを開いてみよう。

そこにはページいっぱいに華やかなイラストのサムネイルが敷き詰められ、クリックすれば拡大サイズのイラストを視ることができる。

それらを消費するものたちがよく言う言葉。「アニメ・マンガは日本の誇り」「芸術」だと祭り上げる気持ちには少なからず同意見だ。

ぼくも(決してネトウヨほどではないが)、三島由紀夫チックな芸術観に影響されている人間なので、少なくとも日本発祥のイラスト・マンガ文化を国家の文化、それを越えて誇りとさえ思っている。


まず、デジタルというものは、0と1の二進法で算術されたものをモニターに表示させる媒体であり、
突き詰めればただの数字の羅列でしかない。

ひるがえって、アナログな芸術というものも、ただの絵の具やらニスやらの化合物の集合体でしかないわけである。

では、デジタル芸術/アナログ芸術というものは、どんな差異があるものなのだろう。

デジタルイラストだって、むろん、自分の脳から産まれたインスパイアを体内の電気信号で目と指に送り、ペンタブレットを握って絵を描く。

アナログの場合も、自分の脳から産まれたインスパイアを、ペンタブレットでないにしろ、化合物でできた絵の具を筆やらなんやらで、化合物のキャンパスに描き残す。

しかしデジタル/アナログの差異は、コピーできることの違いだ。

デジタルは、ファンボックスでイラストのPDFを売りつけてしまえば、100%コピーができるものである。

しかしアナログは原本が最も重要視され、その原本をコピーして渡すことなんて物理的に不可能だ。

様々な技術で「複製画」を造れるが、そこには原本の絵の具についた化合物はない。


では、「絵」ではなく、ほかのアートフォームをみてみよう。

音楽。この場合、レコード会社がプレスしたものが「音源」として認知され、副次的にアーティストがライブでそれを再現する。

しかし、ライブでの体験なんて一回きりしかないわけだし、ライブDVDが出たって、それはただの記録でしかない。

ドローンアートがスゲーと言われていた、オリンピックの開会式も音楽ライブと同様だ。

「祝祭」としての芸術は、その場で眼球を通して観て、そこで終わる。思い出になるだけ。

「絵」に話を戻すが、崇高に崇め奉る「原本」がアナログの世界には存在する。

しかし、デジタルの世界には「原本」はない。PDFの頒布ではなくとも、pixivやTwitterJPEG化した原本を、誰かに保存されて、完全なコピーというものが完成される。

やはり、デジタルは0と1の記号の世界でしかないのだ。

海外の美大には「ジャパニーズ・マンガに影響されるな」という言い伝えがあるそうで(ソースは確証してないが)。

このような言い伝えがウソだとしても、なかなか説得力がある言葉だろう。


だが、ここで芸術というものの見方のレイヤーを変える。

たとえば、葛飾北斎の絵を観た渡来人が、インスパイアを受け、西洋でそれを披露するという歴史がある。

この場合、「原本」でなくとも、量産されたコピー品でも十分 人の心を動かす力があるといえよう。

これをデジタルイラストに置き換えた場合、現在pixiv Twitterを見ればものすごい「影響からの影響、それのまた影響」の応酬という「文化圏」が形成されている。

あの絵師サンみたいな絵を書こうかなと、モニターに自分の絵と並べて映しては、描き続け、完成される。

そのような連鎖反応が、弁証法的にラッシュアワーする。

それはもはや日本だけでなく、アジア圏、英語圏でもジャパニーズ・マンガの技法は「目で盗まれてる」のだ。

さて、ここでふたつ。

原本至上主義の芸術を至高とするか、目で真似て文化圏を広げていくのを至高とするか。

人類個人の持つ、あまねく集合意識<脳>は、どちらを選ぶのだろう。