大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

ツイートする理由がなくなった。

Twitterでつぶやく理由が分からなくなった。

分からなくなったからツイートしてないんだけど、今のアカウントは今後の同人活動に使うから垢消しはしない。

ゆえに保身のため昔のイキったツイートを片っ端からぷちぷち消している。

その中で、昔のツイートを漁るほど、ブロックされた人や、FF内でも距離が遠くなってしまった人と関わってたツイートが発掘されて、胸が痛い。

ミュートも多数からされているだろう。

Twitterでは失った信用を取り戻す事はできない。和解なんてモノはない。ノエル・ギャラガーデーモン・アルバーンと肩を組むようなことは一生涯ありえない。

イーロン・マスクTwitterを改革しても、それは全く変わらないと思う。

Twitterはリアルの人間関係とは違う。ツイッター社が作ったスクリプト上で仮想の人間関係ごっこをする場所である。

仲良くしたいのにフォロ返は来ない。都合が悪くなったらブロックでサヨウナラ。ブロックした人に和解を申し入れても無視。「いいね」し合ってた間でも仲直りはできない。エアリプも無視。

LINEやディスコとは違う独特の「しきたり」を持った世界だ。

みながTwitter社が作り上げたディストピアじみた「しきたり」の操り人形のように、自分に都合の良いタイムラインを構築する。

むろん僕にもFFで仲いい人はいるし、その方々には感謝しているけど、僕はその「しきたり」の作法を忘れてしまった。

まず、人がツイートする理由、Twitterの「しきたり」の基礎は、いいねを付け合ったり、エアリプを投げ合ったりして仲間意識を確認する作業にあると思ってる。

承認欲求の満たし合いの、キャッチボールだ。

しかし、信用を失った奴には誰からも相手にされない。何かを言ったところで、こだまは帰ってこない。

Twitterは、仮想的な友好関係を作り、手軽に承認欲求の満たし合いができる場所だ。

手軽に人間と関われなくなった人間は、その「しきたり」がもたらす喜びを失調する。

誰からも相手にされなくなる。些細な出来事を、キャッチしてくれる誰かに向けたボールのように投げていても、誰も反応してくれないことは、孤独感に胸をズキンと刺されるような感覚だ。

ーーーひとりのフォロワーは言った。「相手にしてくれないやつはその程度の人間だ」。

これは正しい。正しいけど、徐々に仲間と思っていた人間が「その程度の人間」になっていくのが悲しい。

ーーーひとりのフォロワーは言った。「他人に期待をするな」と。

それではなぜTwitterという人間関係ごっこをやるのかという根源に辿り着いてしまう。

ーーーひとりのフォロワーは言った。「自分はどこにも属さないでTweetしている」と。

属さなければ満たされない人間には到底そんな考え方は真似出来ない。

どうやらTwitterというものは、キャッチボールにならないツイートをして、満足できる人が残る場所なのかもしれない。

だから平然と人をブロックして、和解の懇願をしても無視するような鬼畜じみた人間が居坐られるのか。

シミュラークル・ハイパーリアル・ボードリヤール

みな都合のいい世界をタイムラインに作り、日常とは違うバーチャルな環境で気を紛らわしている。

かわいい美少女のアイコンになりすまし、聴き心地の良い言葉。目障りでない人間。リアルでの鬱憤を晴らすかのような下品な発言をしながら、愉しい愉しいタイムラインで、バーチャルライフを送っている。

僕にはそれが理解できない。

美少女アイコンもTwitterの「しきたり」の一つだ。とりあえず、アニメキャラに成りすませば、アニメキャラ界隈同士で迎合される。

僕は別にアイコンごとき何だっていいと思っているが、それを気に食わない連中がいるのも事実だ。

そして話が合わなければ、あるいは耳障りなことを言っている人間がいたら、とにかく排除される。ブロックで、ミュートで、(FF内でも)無視で。

それには僕は全く正反対だ。耳障りなことを言ってくる人ほど良いと思っている。違う趣味や、違う物事の見方を教えてくれるから。

イエスマンしか居ない空間を作って何になるんだろうか。

ボードリヤールボードレールじゃない)的に言えば、シミュラークル的消費がここに行われている。

「界隈」という結束感から得られる安堵。オタク同士の会話をしあえる相手。それらをコレクションするようにタイムラインに並べているんだ、僕以外の彼らは。

人間関係をコレクションする。別にそれがどんな奴でも良い。「しきたり」を守ってくれる人間なら誰だっていい。それこそシミュラークル的消費である。

それは、人間を、意見を、部品として見下す最低な考え方だと思う。

人間をオモチャの部品のように集めて、ぼくだけのさいきょうの世界を創造する。だが、人間とは、意見とは、部品なんだろうか?

そんな空間に安堵して何が面白いのか? まさにボードリヤールが言う通り、そこにあらわれている現実は「ハイパーリアル」だ。

ハイパーリアル。現実感を失調している。

「しきたり」という言葉に合わせると、現実世界にはそんなルールなんて存在しない。だが、ハイパーリアル世界にはそのルールが存在する。

Twitterという空間にいる以上、ハイパーリアル上のキャラクターであらねばならない。

僕等はキャラクターではない。人間だ。シミュラークル、記号的に消費される消費物ではない。人間だ。

Twitter利用者は気づくべきだ。ジャミロクワイのあの歌を思い出せ。「ヴァーチャル・インサニティ(バーチャルの狂気)」を。

カフカの「城」

Twitterは、寂しがり屋たちの居場所ではなかったのだろうか。

フォローが一人でも増えれば、タイムラインが賑やかになっていく。そして、夏目漱石ふうに言えば、「我らをして孤立せしむる現代社会」にとっての救いの場が得られるのではないのか?

孤立感というものは、誰にだって恐怖のはずだ。

なぜ手を繋ごうとしない?なぜ歩み寄れない?なぜ人の恐怖=孤立を理解してやる心を持てない鬼畜たちのヘドの掃き溜めになったんだ?Twitterは?

甚だうんざりするばかりである。人間が人間の言葉をキャッチボールしようとしない、キャッチボールをしようと投げかけた問いに対して理解する頭を持たない人間だらけの「ハイパーリアル空間」は、蟻地獄そのものだ。

ゆえに僕は、まるでカフカの「城」のKのように往生するばかり。

それぞれの「城」に入ることは、もう難しい。これらヴァーチャル・インサニティには ほとほと疲れ果てた。

そして自分自身の組み立てた「城」が、言論を封殺できるどくさいスイッチでサヨウナラされて崩れ去る。

それはまさにアイデンティティーの崩壊。自分が殺されていくのに近い。

自分の正直な気持ちを書き連ねるだけで嫌われていく。僕はTwitterの楽しさを忘れた。もう忘れた。

コラム・なぜぼくらは90年代から逃れられないのか その1

ザ・バットマン」においてブルースがカート・コバーンに仕立て上げられてしまった理由

いわゆるシュワやスタローンみたいなマチズモ像をジェイソン・ボーンが覆したと言われる逸話。

本当に覆せたと言えるのか?

それでもジェイソン・ボーンは派手に白兵戦をするじゃないか。

クレイグに代わったジェームズ・ボンドも普通にバトルをする。

00年代から10年代まで台頭してきたジェイソン・ステイサムという俳優こそ、ガワを変えただけでシュワやスタローンがやってることと何ら変わりがない。

24のジャック・バウアーはもってのほか、リーアム・ニーソンはあの老体で格闘アクションスターになった。

そしてマーベルヒーローを見ろ、VFX特盛のヒーローバトルじゃない。

だいたいダークナイト3作のクリベ・バットマンもド派手に戦っていた。

しかし、ザ・バットマンは戦わないバットマンだった。


バトルシーンは3時間中ほんの数分だった。しかも暗闇での格闘。

ついにバトルをすべきヒーローであるバットマンはマチズモを放棄したのだ。

ただ呆然と家柄の呪いを唇をかみしめて見つめるスーパーヒーロー。

筋肉を模した鉄のプレートを身にまとい、首から上はエモボーイ。

それが20年代のマッチョアイコンとザ・バットマンは示す。

まぁ、スタッフが公言してるとおり、これはカート・コバーンへの回帰だ。

思い返せば2010年代の映画(とくに末期)はいわゆるポリコレの世界だった。

そしてJOKERは19年に「社会を呪う虐げられた弱者白人」を演じた。

そしてバットマン自身も「社会を呪う虐げられる白人」を演出する。

しかもヴィランリドラーすらも「社会を呪う虐げられた白人」だ。

ブラックパンサーやアクアマンやシャンチーへの仕返しのごとく被害者面をする。

「ザ・バ」がやったのは、かつての90年代。グランジロックの祖、「ガンズアンドローゼズ」のようなスタジアムロックというマチズモに反旗を翻した「ニルヴァーナカート・コバーンを神輿に担ぎ上げることによる新たな白人像の提案だった。

00年代初頭の映画「アメリカン・ヒストリーX」を例に出そう。

「アメヒス」では、ネオナチの主人公がマチズモを誇示していたが、刑務所で更生したのち主人公はマチズモを放棄した。

「ザ・バ」もこれが近い。

映画は時代を映す鏡である。

去勢させられたスーパーヒーロー。それが20年代スタンダードのバットマンだ。


00年代にアクション映画を変えてしまったジェイソン・ボーンは、シュワやスタローンのガワを変えただけなのかもしれない。

今後、「エモいバットマン」が、時代をどう映すのか楽しみで仕方ない。

表現の自由とはなんだ?あんたのそれは「表現」なのか?

前書いた記事が「炎上マーケティング」だと断定して書いて、もっと根本的なことを言えなかったから(文章下手杉内)、ここで総合的な表現とは何なのかを書く。

それは表現ではなく商品です

この資本主義社会で生きる上において、表現には全て値札が付きます。資本主義社会に出される表現物は全てお金に還元されます。ただの商品なのです。その理由を語りましょう。

まず、クライアントが居て、企画をつくり、様々な手続きを経て世に送られる。これら極めて資本主義的なステップを踏む表現は、すべて資本主義に還元された「商品」でしかありません。

もはや何世紀の前の骨董品ですらも、資本主義に飲み込まれて、値札が着くもんですから、この世に商品でないものなどありません。

たとえばインディーシーンでDIYされる音楽だとか、同人誌だとか、卒業制作だとかの表現物であったとしても、価値という資本主義審美眼に掛けられるので、商品となります。

優れたインディーズバンドはメジャーレーベルにフックアップされます。同人誌即売会ではその場に来た編集者からスカウトされます。芸大の卒業制作はそのクオリティで会社への内定を獲得できます。

それが、完全に趣味で表現したとしても、「誰かに見せる」という行為を行えば、先の「資本主義的審美眼」で見積もられ、優劣を定められて、値札が付けられます。表現力がお金になる消費社会だから仕方ありません。

そして、消費社会での表現は、商品になって、日用品から高額家電などと、同じ括りの商品になるんです。

需要のない商品は誰にも買われません。

需要のある商品が買われます。

これが、現行の「表現の自由」の正体です。

表現に自由があると高を括るのは、消費社会が視えていない証です。

今起こっている表現の自由問題がどうなるのかは判りませんが、最低限この知識を持ってもらいたいものです。

月曜日のたわわ

「月曜日のたわわ」

これは、炎上マーケティングが国連まで飛び火するとは思わなかったというハナシだと思うんですけど。

まず前提として、すべての芸術は差別なんです。

意図的に誇張したい部分を誇張し、差異を表現するのが美術なのです。それによりルネサンス以降○○派という派閥に分離していったので。

たとえそれが何かを蔑視する概念だとしても、芸術とは残酷なことにストッパーを掛けられないんですよ。

人の頭の中の妄想を止めることは出来ない。

そして芸術というものは、多大なる影響力を社会に発信するものなのです。

かの岡本太郎氏は言いました。政治、経済、その次に芸術という3つの軸が世の中に必要だと。

それくらい芸術は影響力があるものなので、「ただの絵じゃん」と僕は切断操作はできないものと思ってます。

ゆえにヒトラーファシズムに反する芸術を「退廃芸術」とレッテルを貼って糾弾しました。

ヒトラーは「この芸術は気に入らんわ!シね!」って言って。気に入らない表現を、「退廃芸術理論」というそれらしいポリコレ棒を使って、「こういう芸術はキモいぞ」と人々に喧伝したのですね。

詳しくはウィキペディアの記事を読むといいでしょう。面白いと思います。
退廃芸術 - Wikipedia


まぁ。まさに今の「たわわ」がそうなってる状態です。

「退廃芸術」はナチが消滅した時には解放されたんですが。じゃあ今の日本の誇りあるオタクカルチャーをどうすればいいのか?

僕は三島由紀夫的な価値観でオタクカルチャーは「日本の文化」だと思ってます。

三島由紀夫天皇を中心とする歴史と文化を守ることこそが国防だとおっしゃってました。

かれこれ僕も保守的なオタクなので、あまり国外のゲームが国産のゲームより発展するのを「くやしぃ~」と思って見てしまうタイプです。

このままジャパニーズ萌えカルチャーが貧していく姿は寂しいと思います。

萌え絵タイアップのフライヤーが街から消えていくのはイヤですね。

なので、この、いわゆる「ツイフェミ」を挑発した「たわわ」の炎上マーケティングはいけないと思ってます。

三島由紀夫的な、「自国の文化を守る」という観点が必要と思いますね。

炎上マーケティングとして「ワザとやった」という悪意のもとに行われた公告だったのなら、やはりその悪意を自己批判する必要があるでしょう。

「さよなら絵梨」所感

「ぼくのエリ」は観てないので、そこら辺はなんとも言えないんだけど。

本作は藤本タツキ作品で頭一番揺さぶられた。すごすぎる。

「信頼できない語り手」「叙述トリック」が漫画という媒体で出来るなんてすごいな。

一体何が本当なのかフィクションなのか。これらをコマのフレームから何から何まで計算している感じ。

僕はミステリは全く読まない(映画ではよく見るけど)。

SF者の目線で言うと、イーガンやテッド・チャンみたいに、ギミックを「作者も考えてるようで考えてない!(バーナード嬢曰く)」というふうに描いてる漫画だと思った。

どのシーンが現実か虚構なのか、正解をタツキ先生は用意してないと思うわけです。

だけどこの作品の真実は、「死」に対する倫理観にあるわけで、ラストの自殺をやめて、廃墟が爆発するシーンは死への正しい倫理観の現れだと思う。

この混沌たる叙述トリックの中で、確かに言えることは、自殺予定の廃墟を爆発させて前を向いて歩くラストシーンだけが真実なんだ(もちろん爆発は心の中のイメージだったり、映画のVFXだとしても)。

どのシーンが、現実か、妄想か、編集された映像か、を考えるより、メメント・モリを表現したいことがタツキ先生の正解なのだと思った。

この作品がウケないと思う人は、前述の現実か妄想か―をイチイチ考えてしまうタイプだと思う。

すごくいいもん読まさせてもらいました。俺もタツキ先生を超える漫画家になりたいっすね。

「アメリカンヒストリーX」

怒りは全ての感情に勝つ。

憎たらしいやつを怒りに任せて殺したときに脳にあふれるドーパミンの高揚感は、凄まじいものだろう。

観客も、ぶっ殺したいやつを一人や二人思い浮かべるかもしれない。

そいつをぶっ殺した時を想像してみるといい、多幸感を感じるかもしれない。

歴史とは、怒りがドミノ崩し的に連鎖していくものである。

一人が改心しても無駄である。

怒りが、集団規模になったときに、それを食い止められる個人はいない。多は個より強い。

そして、ふるわれた怒りが自分の集団に起こったら、それは悲痛だ。

この映画には、人種、ナチのタトゥー、スキンヘッドという、それぞれの集団のしきたりが存在する。

その しきたり はくっついて絶対に剥がせない。一度スキンズになったら髪を伸ばしても無駄である。

個は多より弱いわけで、個になったデレクとダニーに悲しみが降り注ぐ。

この映画は、人種差別の啓発よりも、ファシズム(結束主義)に対して掘り下げた映画だった。

個同士の心の通じ合いは、素晴らしいものだ。

しかし、多の通じ合いは敵対関係でしかなくなり、怒りを誘発させる。

ファッショに集結してはいけないのだ。帰属意識を持ってはいけないのだ。

この映画はアメリカの歴史ではなく、人類普遍の法則を説いてある。

「他人に期待するな」と「人は一人では生きられない」のパラドックス(微修正版)

「他人に期待するな」 「人は一人では生きられない」

このふたつの言葉は、おおむね「公正世界信念」に組み込まれる、道徳的な言葉です。

しかし、この二つは聞いての通り矛盾している言葉です。

このテの話は中島義道の本に詳しく書かれてるのですが、私の言葉で言います。


前者は、他人に期待せず自力で不安を取り除く強い心のリカバリーを説いてます。

後者は、他人を期待して他力本願で不安を取り除く弱い心のリカバリーを説いています。

どちらが正しいのかは判りません。どちらも正しくないのかもしれないし、どちらも正しいのかもしれません。両立しているのかもしれません。

まるでポスト・トゥルースオーウェル二重思考そのものです。

これは果たして何なのか。

現実としてこのケースを鳥瞰しましょう。


―――かつて、古代人から「他人に期待せず」狩猟生活をおくる民族と、「他人同士で互いに生きる」農耕民族がおりました。

やがて狩猟生活を送る人々は滅んでしまいました。
「他人に期待しない」人たちに「一人では生きられない」人が勝利したのです。そして我々は、その農耕民族が築いた社会の上で生きています。

端的に言えば、農耕という集団作業の出来ない人間は駆除されたということですね。

ということで、「他人に期待しなければならない」というロジックが支配的になっています。

個より多の方が強いということです。当たり前ですね。

よって、他人から期待の見返りがない場合ソイツは死ぬしか無いということです。

残酷ですが、これは人類ウン億年の歴史が物語った大いなる真実でした。

さて、ここに民主主義の欠点が暴かれてますね。

公正世界仮説と民主主義<つまるところ我々の常識>がペッタリ裏付けあってます。

新自由主義の競争社会はまさに個を蹴落とす農耕民族が発展させた生活

対抗する手段は外山恒一的なブランキズムのみでしょう(ぼくは個人的には無理だと思ってますが)。

あとは殺されないように一人で生きるか。というわけです。


―――しかし、この世界で孤独な人間などどこにも居ません。

f:id:doppoo-2007:20220410193341j:plain

ニートはママからのオマンマをもらって食いつないで、不具者や浮浪者や高齢者は社会保証で生きていけます。

繋がってないようで、繋がり合っているのです。

f:id:doppoo-2007:20220410193547j:plain

人類の歴史が、他人と依存する社会を形成していったことも、そこに入れない奴が蹴落とされることを物語っても、どっかしら繋がってるわけなのです。

ここにコペルなんちゃら的転回が起こります。

農耕時代は違ってたかもしれませんが、いままで発展してきた民主主義と公正世界信念は、個を蹴落とさないように形成されてきたのです。

なので、絶望するのはやめましょう

そして、他人を絶望させるのはやめましょう

そう考えてます。ぼくは。