大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

コラム・なぜぼくらは90年代から逃れられないのか その1

ザ・バットマン」においてブルースがカート・コバーンに仕立て上げられてしまった理由

いわゆるシュワやスタローンみたいなマチズモ像をジェイソン・ボーンが覆したと言われる逸話。

本当に覆せたと言えるのか?

それでもジェイソン・ボーンは派手に白兵戦をするじゃないか。

クレイグに代わったジェームズ・ボンドも普通にバトルをする。

00年代から10年代まで台頭してきたジェイソン・ステイサムという俳優こそ、ガワを変えただけでシュワやスタローンがやってることと何ら変わりがない。

24のジャック・バウアーはもってのほか、リーアム・ニーソンはあの老体で格闘アクションスターになった。

そしてマーベルヒーローを見ろ、VFX特盛のヒーローバトルじゃない。

だいたいダークナイト3作のクリベ・バットマンもド派手に戦っていた。

しかし、ザ・バットマンは戦わないバットマンだった。


バトルシーンは3時間中ほんの数分だった。しかも暗闇での格闘。

ついにバトルをすべきヒーローであるバットマンはマチズモを放棄したのだ。

ただ呆然と家柄の呪いを唇をかみしめて見つめるスーパーヒーロー。

筋肉を模した鉄のプレートを身にまとい、首から上はエモボーイ。

それが20年代のマッチョアイコンとザ・バットマンは示す。

まぁ、スタッフが公言してるとおり、これはカート・コバーンへの回帰だ。

思い返せば2010年代の映画(とくに末期)はいわゆるポリコレの世界だった。

そしてJOKERは19年に「社会を呪う虐げられた弱者白人」を演じた。

そしてバットマン自身も「社会を呪う虐げられる白人」を演出する。

しかもヴィランリドラーすらも「社会を呪う虐げられた白人」だ。

ブラックパンサーやアクアマンやシャンチーへの仕返しのごとく被害者面をする。

「ザ・バ」がやったのは、かつての90年代。グランジロックの祖、「ガンズアンドローゼズ」のようなスタジアムロックというマチズモに反旗を翻した「ニルヴァーナカート・コバーンを神輿に担ぎ上げることによる新たな白人像の提案だった。

00年代初頭の映画「アメリカン・ヒストリーX」を例に出そう。

「アメヒス」では、ネオナチの主人公がマチズモを誇示していたが、刑務所で更生したのち主人公はマチズモを放棄した。

「ザ・バ」もこれが近い。

映画は時代を映す鏡である。

去勢させられたスーパーヒーロー。それが20年代スタンダードのバットマンだ。


00年代にアクション映画を変えてしまったジェイソン・ボーンは、シュワやスタローンのガワを変えただけなのかもしれない。

今後、「エモいバットマン」が、時代をどう映すのか楽しみで仕方ない。