大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

シン・ウルトラマンで気づいた、「2022年のシミュレーション系SF」の現在地

シミュレーション系SFは変わった。

かつて、シン・ゴジラが、仮面ライダークウガが、踊る大捜査線が、平成ガメラが、パトレイバーが、「リアリティ」を軸にして、現実でSFが起こったらどうなるのかをシミュレーションしていた。

アメリカでいえば、ウォッチメンボーン・アイデンティティーダークナイトか。

我々はそのシミュレーションに熱中して、シビアなリアルさを楽しんでいたはずだ。

しかし、「シン・ウルトラマン」は、少し変わったシミュレーション系SFになっていた。

「空想が現実を変えることはもう、当たり前である。」

「シン・ウルトラマン」は、もう空想が現実になっているのを当たり前に享受している世界でのSFシミュレーション映画だ。

シン・ウルトラマンは、シン・ゴジラにおけるシミュレーション性を一つアップデートさせた。

シン・ゴジラ以前の作品群みたいなシミュレーションを楽しむ時代は終わったぞと。

それはかつて新海誠も「天気の子」における、「世の中、もともと狂ってる」というテーゼで、同じことを示していた。

だが天気の子はシミュレーション系SFではない。ただ、庵野樋口も同じような考えをシンウルトラマンに入れ込んだのは確かだ。

ゆえに、ネットでチラホラ拝見される、「シンゴジをシンウルに求めてる人は楽しめない」みたいな意見も納得する。

シンウルトラマンは、全く新しい「ポスト・シミュレーション」の概念で作られた映画なのだ。

シミュラークルの価値観

シミュレーションは人の想像を駆り立てる。

ガンダムだって、ヤマトだって、エヴァだって、ある程度のリアルさを風呂敷にして繰り広げられた物語だ。

我々も、その、ある程度のリアルな風呂敷に惹きつけられたはずだ。

ウソモノの荒唐無稽SFより、ハードSFを求める層は昔からいるし、海外の業界にもいる。

みな、「こんなことが実際に起こったらどうなるの?」という好奇心を持っているのだ。

だが、シン・ウルトラマンは、冒頭における怒涛のカイジュウ登場・駆除シーンと、カトクタイの登場シーンで、「空想は現実になっている」世界を予め示す。

大災害・原発事故を経た現在。安易なシミュラークル(空想物)に驚くこと自体バカバカしいと割り切って庵野樋口は、シミュラークルの水準を意図的に下げた。

それが、偶然コロナと超大国の戦争というハイパーリアルを経ても、シン・ウルトラマンのシミュレーション性をバカバカしいとゴミ箱に捨てられない、一定の強度を保っている。

「シミュレーション系SF」で、ぼくが好きなのは、森恒二先生のマンガ「デストロイアンドレボリューション

このマンガは、超能力を手にした主人公が、現代社会を世直しするシミュレーションを行うSFなのだが、その超能力が発揮されたとき、政府の人間が「科学の時代が崩壊した(うろ覚えだけどそういう台詞)」と云う。

個人的に、ぼくはよくある超能力バトルマンガが苦手だ。

人類が何億年も作り上げた文明社会が、単なる若者が得た超能力で覆る様は「シミュレーション性がない」と思うからだ。

しかし、「デスレボ」は、その台詞によって大きな文明社会とシミュラークルとの整合性を保っている。

ガンダムも、ミノフスキー粒子宇宙戦争というシミュラークルで成立している、後付け設定満載のハイパーリアルでも納得するのだ。

鬼滅の刃も呪術廻戦もヒットしたけど、それら「大きな文明社会との整合性」に対する「言い訳」がないSFより、「言い訳」のあるハードSFが好きな人だっている。


余談だけど、ハードSFである「メタルギアソリッド」における、ゲーム内のリアリティとユーザーインターフェースの矛盾に対して、「リアルなもの目指してるけど、非現実的な要素が出てきたら荒唐無稽でもいいの!」とメタ的に開き直るのは好きだがね。

「ポストシミュレーション」の今後

シン・ゴジラや君の名はが公開されたときに、「もう震災メタファーなんていらないんじゃないの」という意見を見かけた。

今は震災から11年過ぎて、震災メタファーネタが、風化されたように感じる。

今後は震災の代わりに、現在起こっているコロナや戦争がバックボーンになるはずだ。

シン・ウルトラマンが作った「ポストシミュレーション」には、天変地異的なカイジュウが現れても、普通に平和な生活を送る市井の人々が描かれた。

この正常性バイアスは、現実社会では当たり前のものだ。

「ポストシミュレーション」の土台は、こういう人々の描写から描き出されるのだろう。

今度は、「平和ボケ」から「非平和ボケ」のシミュレーションの時代になる。と予測する。