大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

『淫夢ネタ』に関する研究(という名の冒険)

はてなみたいなハイソな場所では控えられている『淫夢ネタ』。
こういう場所で淫夢ネタを語るとなるとやれゲイ差別だと短絡的に結論を出されがちだ。
淫夢はタブー視されているんだ。

逆に淫夢はなぜ一部の人間たちに迎合されているのか、ゲイ差別と分かっている前提で、なぜ一部の人達はこのようなゲイ差別をネタとして消費しているのか、タブーの隙間を覗いて、考えたい。

淫夢ネタは、ジャーゴンとして使いやすい。

これは要するに、Web上の会話というものを短絡的に済ませたいという目的で淫夢ネタは消費される。

たとえるなら、LINEスタンプのようなものだろう。

Web上の会話では、まず顔が見えない相手との、文字だけの対話となる。

会話のニュアンスを文字上で済ますには難しくなる。

そういうものを経て、2ちゃんねる用語みたいなものは発祥したし、淫夢ネタもこれに帰結する。

会話の切り込み方、会話の終わり方、そういう場合、淫夢ネタはコミュニケーションツールとして使いやすいのだ。

しかも、「淫夢は笑って見るもの」と捉えて、場をなごませるような、笑って済ませられる軽やかなジャーゴンとして使われやすい。

本能的に面白いと感じやすい。

これは、どうしようもなく「面白い」と感じやすい人が多いのだ。本当にこれはどうしようもない事実。

「差別である」という高いハードルよりも、「面白い」という感情は「差別である」というハードルより低く感じられる。

倫理観において、高度な「差別である」という論理と比較して、「面白い」という感情が優先的に取られてしまう。

これは人間のサガ的なものである。本当にどうしようもないのだ。人間は愚かなのだ。

社会がタブー視している「性」をデフォルメしている。

セックスの話なんて、そうそう簡単に出来やしない。

淫夢ネタは、そこに漬け込んで発達した。

自由主義的に考えて、性は未開拓の領域で、そこを「ネタ」として落とし込むのに楽だった。

人間の本能には、性を明け透けにして、タブー破りをする快楽があった。

内輪ネタとして、「知る人ぞ知る」という感覚に酔っている。

淫夢ネタを知らない人を釣ったりすることを面白がっている例も過去にはある。

この「知る人ぞ知る」という一種の内輪ネタ感覚は、無意識に淫夢ネタへの帰属意識を駆り立てられ、知らない人より優位に立っているという錯覚を起こされる。

差別とは思ってないから。

究極的に問い詰めれば、この結論だ。

差別ではないのだから、何をしてもいい。そもそも差別なのかどうかすら曖昧な領域に淫夢ネタがある。

あるいは差別ではないと思っているから使う。



………以上の推論を持って、軽く批評してみたわけだが、どうだろうか。
この危険なネタを、使うのも使わないのも、その人次第だ。
ただ、こういうノリもあるよと、知らない人には熟慮してもらいたい。