(エラソーなこと言ってるけど、シェイクスピアには明るくないので、あえてここではシェイクスピアを語らない)
アニメにおける劇中劇というものは、(私の知っている限り)全てが「本編を越えないクオリティ」であることが「保証」されている。
なぜ「保証」なのかと言うと、本編を越えるクオリティの劇中劇を出したら当然リアリティが破綻するからだ。
本編を越えるクオリティをやってのけてしまった『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』は、以降マクロス世界史における「劇中劇」として扱われ、後にも先にも全てのマクロス作品は「劇中劇」だという設定がなされた。
意図的に「本編を越える劇中劇」をやったら、マクロスになる。『トゥルーマン・ショー』になる。マトリックスになる。ファイトクラブになる。
「これは夢なのか現実なのか…」的な、いわゆる「マインドファックもの」になる。
それほど劇中劇のリアリティが本編を越えないことは「保証」されてないといけないのだ。
『クレヨンしんちゃん』のアクション仮面だとかカンタムロボのように、ハミ出しては行けないラインというものが想定されているのだ。
たとえるなら
『カメラを止めるな!』や、テレ東深夜の『山田孝之の~』シリーズでは、劇中劇を逆手に取って「劇中劇もの」をやっていたり。
『機動戦艦ナデシコ』では「ゲキガンガー」が重要なファクターを担ってたり。
『20世紀少年』の「よげんの書」であったり。
『恋のミクル伝説』であったり。
対して、ここで、劇中劇というものにリスペクトしている作品の好例を出すと、たとえば『SHIROBAKO』。
23話では、SHIROBAKO本編よりリアリティが劣る劇中劇に、「どんなアニメでもみんなが幸せになれるものづくり」の姿勢が真摯に語られていた。これは、劇中劇というものを描くアニメとして素晴らしい、泣けるシーンである。
『NEW GAME!』でも作中劇のイーグルジャンプ制作ゲームに真摯に取り組むキャラクターたちの葛藤が描かれている。これも泣ける。
『冴えカノ』だってそうだ。
ーまとめてみると、「劇中劇」を因数分解すると、プロップでなくてはならない。道具として扱わなければならない。
だって、ゲーム内ゲームが本編より面白かったら、そのゲームは発売される意味がないでしょ?
だけど、劇中劇が本編に大きくファクターを割く作品なら、それはもうマクガフィンとして丁重に扱わなければならないのだ。
『うる星やつらビューティフルドリーマー』の「胡蝶の夢」から『SHIROBAKO』の「白箱」というマクガフィンに至るまで、徹底的にやる。
そうしないと、劇中劇というのが滑稽に見えてしまう。
商標を避けるためにマクドナルドをワクドナルドとか言ってるような滑稽さ。
それは避けねばならないのだ。どの作品においても。
そういった「虚構と現実」において、悩みに悩んでいた押井がついに決着をつけた『パトレイバー2』は素晴らしいな。と思いました。