大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

一人暮らし生活70日目 人の死について。

ジョギング

今日はPSYCHO-PASSサウンドトラックで走る。

しかし、7000数百歩目で昨日から続く足裏の痛みに耐えかね、帰宅。
ジョギングとは走るだけの行為なので、どうしても己の心の声と会話しなければならないが、今日は心穏やか。ドス黒い恨み節も湧いてこなかったのに、残念だ。

コロナという「大きな物語」について、なぜみんなタブー視するのだろう、とか思いながら走っていた。

セックスを人はタブーとして考えるのと同じく、我々は「死」をタブーにする。
夕飯の一家の食卓で「アイツは殺されるべきだ」とか「死ねばいいのに」みたいな会話はしないだろう。

新型コロナは人を死においやるパンデミックだ。
その点を思慮すれば、新型コロナウイルスという「大きな物語」を語ることは、日常会話でも難しくなる。

死って怖いねレベルでは話せるが、あいつコロナにかかればいいのにとか、そういう話は食卓でするもんじゃない。

…ちょっと待てよ。前者の「死って怖いね」というレベルでは我々は日常的に話せるはずだ。
セックスは結婚や出産という祝祭によってタブーを外す。
ならば死も、タブーを外すことができる。死を他人事のように、非対称的に考えれば我々はかんたんに死について話すことができるのだ。

実際、コロナは普通に毎日毎時マスコミが報道しているし、毎日出される統計学上の「死者数」の話が食卓に流れても我々はフツウに聞き過ごす。

コロナは「大きな物語」だが、島宇宙化されたポストモダン以降の現代では無効だ、という言説を確か正月に僕はした。

その話に尽きてしまうわけだが、我々はコロナの「タブー化されない側面」を無意識に選択して、日常的にマスクと消毒をする。

コロナ死に目を向ければ、コロナで死んでも上等なイデオローグや、フーコーの文脈の政権力について日常的に私達は話さなくてはならない。
でも、それは難しい。

ゆえに大衆はコロナの本質である「死」から目を背け、今日も意味のあるんだかないんだか分からねえようなマスクと消毒をして生きる。

ミュージシャンは社会を批評するべきなのにこの期に及んでもラブソングなんかを垂れ流す。

新型コロナウイルスとは、そういうものだ。