大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

情報量は最小限の方が“かわいい” ~『Vtuber』と『ちいかわ』まで。

「極端にデフォルメ」された作品は、ここ数年、常にコンテンツを世代交代しながら流行っている。
ちょい前に『モルカー』ブームがあって、今流行っているのは『ちいかわ』かな。現場猫もまだ流行ってるし、『川尻こだま』も局地的に流行っている。


「極端にデフォルメされた作品」。と乱暴にひとくくりすると、上記の様式をとった作品のことを言う。

特徴としては、いわゆるヘタウマ系で、表情以外の要素をオミットしたデフォルメ。である。
私がこのテの作品の特異性に気づいたのは、まだ上記の作品が台頭する前の2016年。バーナード嬢曰く。のアニメ・原作コミックと『マンガで分かる!FGOポプテピピックのブームからだ。

この3作品の共通する特異性。それはどちらも、「ヘタウマ系で、表情以外の要素をオミットしたデフォルメ」にある。
そう、「萌え」の局地とは、情報量の極端な圧縮から訪れるのだ。

思い返せば、例えば、「きらら系」の作品は、低い等身でたった4コマで表現される形式なのになぜ可愛いと思えるのか。

それも情報量の極端な圧縮にたどり着くゆえにある。

私は、この時点で、新たな「究極のデフォルメ≒萌え」の巨大なブームが来るな。と2016年の時点で確信していた。
そして、私の直感は、2017年のけものフレンズの一大ブームによって的中した。

けものフレンズ』がなぜかわいいのか。それは、サーバルの非常に斬新なデフォルメに突き当たるはずだ。

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皆がこの独特のデフォルメに惹きつけられて、「けもフレ」ブームは起こった。皆の感覚は「究極のデフォルメ≒萌え」という新たな境地を切り開かれて、意表を突かれるカタチで、「けもフレブーム」が発生された。



さらに、私の直感は意外な方向から起こった。
そう、いまや一大コンテンツになってしまったVtuberである。

Vtuberの爆発的なムーブメント。それは恐ろしいくらいに、突発的な方向から、波状的にわれわれオタク業界を呑み込んだ。
もはやオタクとVtuberは不可分の存在である。ブームを越えて文化になってしまった。

Vtuberは、ここまで私の挙げた「究極のデフォルメ」に到達した存在である。
まず、彼ら彼女らのアクションは、表情と、手の動きと、身体の傾きだけで、ほぼ一定に真正面から描き出される。
これだけで十分なのだ。観客に与える情報は最小限で十分なのである。
そこには、マンガの技法書にあるような、「キャラクターを特徴づける所作」のこだわりなど一切必要ない。
ただ「圧縮された情報」それさえあればいいのだ。

ここまで振り返ってどうだろう?ちいかわも、Vtuberも、観客に提供する情報を極端に圧縮すれば「可愛い」は簡単に作れてしまう。
仮に「ちいかわ」のブームが終わっても、そのエピゴーネンたちはこれからも現れるだろうし、Vtuberは、向こう数年は安泰なコンテンツだろう。

このフォーマットは、ゲームにも言える。
我々が、右から左に攻撃する演出だけのRPG(『FGO』とか『グラブル』とか『スパロボ』とか)に熱中してしまうのはなぜだろう。それは、最低限に圧縮された情報があればそれでいいからである。
あれほど練りに練った『原神』や『ウマ娘』に、もはやUIが旧来然としている『FGO』が対抗できてしまう現状は、最低限に圧縮された情報があればそれでいいからなのだ。

あとは、個人的に好きなアニメである『ゆゆ式』と『けいおん!』を比較して評論したい。

けいおんは、京アニスタッフが考えに考え抜いた技巧で描かれる演出に魅入られる作品である。
どの程度の予算で作られた作品かは分からないが、けいおんの映像は高級感がある。堀口女史の精巧かつ大胆にデフォルメされたキャラクターデザイン。泣きのポイントも練り込まれている。京アニクオリティがある。

対してゆゆ式は、けいおんほど大げさなバジェットで作られたと思い難い(真相は分からないが)。
そして、ゆゆ式が観客に与える情報量は引き算的に示される。
基本的に白い背景に、シンプルな配色を行う。
キャラクターのデフォルメも極端である。

練られた泣きのポイントもなければ、ハナシも「ノーイベント、グッドライフ」。
なのに、なぜか「けいおん!」と同様に、ゆゆ式は泣けてしまうのだ。
情報の引き算に泣けてしまうのだ。
これは個人的にすごいポイントだなと思った。
きららアニメはオワコン。みたいな増田を見かけたが、私の見解は逆である。
これから更に大きなきららアニメのブームが起こると信じている。
現に、ついこの間『まちカドまぞく』はヒットしたじゃないか?

「圧縮した情報量」「情報量の引き算」の文化は、これからも如実に、かつ永遠に、続いていくことだろう。