大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

「ここまで生きてこれて良かった。」ということ。

筆者は、2024年8月26日に誕生日を向かえ、30歳になりました。

僕には大きな夢がありました。 「プロか同人界で、一廉の漫画家・イラストレーターになりたい」という、オタクな若者が一度は思い描く夢です。

残念なことに、その望みは20代のうちに叶いませんでした。

商業雑誌の賞を、努力賞すら受賞することもなく。 Xのフォロワーが1万人以上になるどころか、700人程度で終わる。 それが僕の30年間の限界でした。

これでは30代になってから成功することなんて、万に一つもないでしょう。

いちおうオリジナルの創作漫画を、pixivにて2ヶ月に一編ぐらい描いているんですが、これが全くと言っていいほど泣かず飛ばず。 それどころか、漫画がヘタクソすぎて自分の実力の限界を知るだけでした。

まったく破れかぶれで踏んだり蹴ったりな30年です。

オマケに同じ年に生まれた元フォロワーが、商業的に世界的に大成功を収めた作家になっていた。なんてこともありましたね。 そりゃあもう屈辱の限りですよ。 悔し涙も流しましたさ。

それでも、何かを残さなきゃいけない。 生きてる証をこの世界に残してからじゃないと死ねない。

その思いで、オリジナルの創作漫画を十数本描いていた次第です。

強迫観念と化した夢。

それは20代の人生を延々と消費する中で、タナトフォビアに変わって僕を常に苦しめてきました。

とにかく、死ぬのが怖い。

何も残せずに死ぬわけにはいかない。

映画「ショーシャンクの空に」で、人生の長期間を刑務所で過ごしたお爺さんが釈放される場面があります。

そのお爺さんはけっきょくシャバに馴染んで生きることができず、せめてもの存在証明として、「自分はここに生きていた」と壁に書き刻んで自死しました。

この場面は、タナトフォビア。メメントモリハイデガー哲学で言えば、「死の先駆」に通底するところがあります。

とにかく、20代の僕は死へ向かう人生への恐怖に脅されて生きていました。

その一つの節目として、「30歳」という、社会的にも肉体的にも「老いていくおじさん」になってしまう、今年2024年8月26日の誕生日がものすごく怖かったのです。

…数年前のことですが、25年間生涯を共にした猫が亡くなりました。

これは、僕の人生における大きな喪失をはじめて味わった体験です。

その猫の生前の写真を見つめながら、29歳の残る数分間、僕は電波時計を握りしめ、眠い目をこすって、自分が30歳になる日付変更線を見届けました。 それが20代で行った最後の行いでした。

ですが、日付変更線を超えたその直後。 悟りが開けたというか、ふと自分の中で何かが吹っ切れたのです。


『おれは、30年間生き延びることが出来た。嬉しい。あまりにも嬉しい。』


そんな、ひとつの密かな歓びに、僕は気づいてしまったのです。

人類、いやこの世に生を受けたものの原始的な目的は、生命活動の維持です。

生命を永く保たせることによって、「最新の世界を生きる」。 少なくとも自分は、25年で逝ってしまった相棒の猫よりも先の未来を見ている。 生きている。

そんな動物的な歓びがふつふつと湧いてきたのです。 死に近づいたのに、歓びが湧いたのです。

人生に、生きる目的や意味などありません。

自分が生きた証を、世の中に残す。 そんなものは、ここ数千年で文明社会をはじめたばかりのホモサピエンスの驕りです。

農耕社会が始まり、社会が発達していくにつれ、余暇というものが生まれて、愚かにも人類は、生きている証を残すという野心を抱いてしまいました。

ですが、数万年にわたり続いた狩猟採取社会の人類は、「ただ生きることが、生きる目的。」だったのです。

「生きろ、そう叫びながら心臓はビートを刻んでいる。」

これは、僕が感銘を受けた作家・村上龍コインロッカー・ベイビーズ」という小説に出てくる一節です。

一方では、「人間は本能の壊れた動物」だと、学者・岸田秀はおっしゃっていました。

ただ、生存本能に従えばいい。

それが生きること。

それ以上の理由を求めるのは、万物の霊長だと驕り高ぶった人間の傲慢。

うちの猫の死因はガンでした。 しかし、いくらその身に激痛が走ろうとも、心臓の動きを自ら止めることなどしませんでした。

彼は動物的な本能に従って生きたのです。自ら命を止めるなどという選択肢は、少なくとも猫という動物は持ち合わせてなどいません。

いやいや、人間とは、生物界で唯一「理性」を持った、動物とは画一した存在だろ。

そういうツッコミも有りうるかもしれません。

では、その理性を行使して一考すれば、「今まで生き延びてこられなかった存在の、その先の未来を見る。生きる。それが人間に課せられた責任だ。」と僕は反論します。

例えば、歴史上には、世界の真理を解き明かそうとした者。現代社会の基盤を作った者の名前が連なっています。しかし、彼らは最新の世界をその目で見ることもなく逝って、歴史の教科書にその名前だけが残りました。

社会の構成員として、社会の基盤、科学や哲学を作ったものたちの跡を継いで、生命活動を謳歌するべきです。それが人として課せられた責任なのではないでしょうか。

(日本に住む一般的な)人間は、動物の命を食べて生きています。

屠殺した動物の生命の責任を取るためには、やはり「彼らが生き延びられなかった、最新の世界を生きる。」ことに尽きると考えます。

とどのつまりは、ただ生存本能に従えばいいのです。

それ以上のワガママは、度を超えれば社会に対して悪影響を及ぼしたり、自分の心も苦しめることになります。

我々は人間である以前に、生存することが本能の動物である。

それを忘れないよう、これからの人生を全うしていきたいと想いました。