大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

「原理原則主義者」であるということ

幼い頃、父親とこういう会話をした。


ぼく「今ならネットで何でも買える、それは善いことだ。」

父「ネットでなく実物の売り場に行くことのほうが善い。売り場にたどり着くまでに色んな発見と出会える。」

ぼく「世の中は新卒主義だから一歳でも若くないと採用されない。」

父「おれだったら年齢より人生経験豊富な人を採用する。」


こういうふうな父親にぼくは育てられた。ちなみに父の好きなミュージシャンは尾崎豊浜田省吾である。だが長渕剛は嫌いらしい。

父は、浜田省吾はテレビに出ないからカッコイイと言っていた。

父に、何でブルーハーツじゃなくて尾崎が好きなの?と聞いたら、繊細だからと言った。

父は、長渕は方向性を曲げて筋が通ってないと言った。

父は、ダウンタウンより江頭や故・上島竜兵みたいな命かけてる芸人の方が好きと言った。

父は、かのウィルスミスのビンタのやつで、「男らしくてスカッとしたな」と云う。

まさしく、情に厚い、昭和レトロな、富野由悠季ふうに言えば「原理原則主義者」だ。


そして現在。父親はうつ病にかかってしまった。

旅行関係の会社づとめで、コロナのショックをモロに受けてしまった仕事をしていたからだ。

父は、これからはテレワークとメタバースの、実態を失った世界になる、と嘆いていた。


ぼくは父と違い読書家なので、デカルト懐疑論的なふうに世の中を斜めから観ている。

ぼくは、伊藤計劃(「富野なんて心底くだらない」と言ってたね)と、SFと、ニューアカ本と、映画のアメリカンサイコ、マトリックスファイトクラブ。そしてジャミロクワイの「ヴァーチャル・インサニティ(ヴァーチャルの狂気)」とかに影響され、現実感の欠如をメタ的に見ることが出来た。


しかし、富野的・宮崎駿的 原理原則主義者な父にはできなかった。


ぼくは父に教え込まれた原理原則主義を否定はしない。

ただ、斜めからの視点を持っているがゆえに、ソシャゲのガチャを回して「今はヴァーチャル・インサニティの世界だから課金なんてアタリマエなの!」。みたいな姑息な自己正当化をしている。

ヤマカンが云うような「インターネット・SNSの狂気」を“分かっていながらも”熱中してしまう。

それに反して、Vtuberはただのキャラクター消費、オタク・イズ・デッドだと思ったり、イーガンの「ディアスポラ」(完全に読み解けてない)でいう肉体人に共感するし、ガンダムF91の機械より人間が勝つ寓話も好き。

ぼくは、例えばこう、ブログに文章を打っているキーボードやマウスは誰かが作ったシステムから生み出されたものという感覚はあるが、それが分かっててもやめられないというジレンマを抱えているのだ。

人情と冷笑のグレーゾーンにいる。それがぼくだ。

だが、自分のスタンスは案外間違ってないと思う。

両方の視野で世界を見れるからだ。

一番やっちゃいけないのは「分かっていても自己正当化をして冷笑・バーチャルな世界にのめり込む」。

それだけはやめる努力が正しい倫理観なんだと思う。