三白眼キャラクター問題
いや、なんか嫌じゃないですか。エコヒイキしてるみたいで。
まず、キャラデザの段階でキャラクターの眼を三白眼にしてしまうと、そのキャラクターには剥がれないバイアスをかけてしまうことになります。
全員が三白眼の作品ならいいんですが、特定キャラが三白眼となると、そのキャラクターは特別視しなければならないということになります(ギャグ作品を除く)。
例えば、三白眼が普通の眼のキャラクターと喋っている時は、三白眼さんのエモーションが優位になるバイアスがかかります。
そうなると、主義や主張の中立性が保たれなくなります(ギャグを除いたのは、ギャグ作品は主義や主張をしないため)。
中立性をあえて保たせず、そのキャラクターの主観で物事が進むハナシならいいんですが、そのキャラクターには「剥がれないバイアス」が呪いのように付いてしまっているので、三白眼さんは主張を変えることが難しく、あるいは、逆に主張を変えるのが簡単になってしまうのです。
そして、特定の三白眼さんが主張を変えずに、その主張が押し通るハナシになると、ものすごくバランスを考えないといけないドラマになってしまうのです。
ですが、別にこれは悪いことではありません。使い方次第ということになります。
三白眼ではないけど、『デスノート』には特定の人物が「真っ黒い眼」を持ちます。そしてこの作品は、真っ黒い眼さんの主張を押し通しながら戦っていくドラマ仕立てになっています。
あと、ここからは私見です。
ギャグ作品にもケチをつけるようになるんですけど、たとえばギャグコメかラブコメで三白眼の主人公は僕はなんかイヤです。
感情移入のしやすさを考えてそうしてるんだろうけど、僕はその三白眼主人公さんが画面に入ってきた瞬間、公平性が失われるようでイヤです。なぜなら、僕は男女でも公平性を持った作品が好きだからです。昔のエロゲアニメとかね。
公平性をわざと失わせるということは、とにかくセンセーショナルにこの作品をブチ盛り上げていくぞォー!って主張を押し付けられてるみたいで本当にイヤです。
あと昔あったね。
彼女の眼の大きさの解釈とか、どっちも可愛いからどっちかにしてほしい(けどどっちも好き)。
きょうの生活
ちょっと遠いところのスーパーに買い出し。
日々引きこもってるせいか、今日の陽射しはとてもあたたかく、ゆゆ式のサントラを聴きながらテクテク午後3時ごろの街を歩いていました。
五感が感じるゆゆ式的エモさがなんだかエモくて、とてもエモい気分になりました。
エモ。
エモという言葉が因数分解されている。
エモは本来、シカゴ音響派のトータスとか、アメリカンフットボールのジャンルで、マスロックが(以下略)。