ぼくは2013年あたりからニワカなシネフィル気取りになって、2016年では100本近く映画を観ていた経験から言わせてもらうと、どんな映画でも鑑賞には苦痛を伴うものだと思っている。
超面白い映画でも、超好きな映画でも、だ。
そもそも、2時間画面を静止して観続けるという、人類の本能としては異常な行動が無理だ。
ぼくも精神疾患を患ってるので、ADHD的な何かがはたらいてるのじゃないかと思うが、人類の本能的に考えて異常な行動であることは確かだろう?
だから、いかなる映画でも、映画館で時計をチラ見する。
確かに、まだ終わってないでくれ~ この映画世界から俺を離さないでくれ~ と思う映画もあった(ワンアポハリウッドとか)が、それでも時計を気にするものである。
これは生得的に得てしまった人類のサガなので仕方がない。
じゃあ何を求めに映画館に行くのか?拷問2時間コースを受けるために行くのか?という問いが生まれる。
2016年時の、まぁまぁシネフィルだったぼくは、予告編とかフライヤーとかで興味を持った映画ならなんでも観に行った。
ネットの評価などお構いなしだ。
つまらない映画は2時間の拷問。楽しい映画は楽しいけど2時間のちょっとした拷問。そう捉えていた。
だが拷問の果てには、「発見」があったのだ。
異国の文化や社会を観る洋画。現代日本社会が抱えるモノを呈する邦画。陳腐な映画、笑えるだけの映画。ビッグバジェット級からミニシアター系に至るまで、ぼくは「発見」がしたかった。
ぼくのプロフィールに書いてあるとおり、僕は漫画家志望だ。
ゆえに、発見を重大視している。つまる、つまらないの二元論を捨てて、「このテーマいいな」とか「この展開いいな」とか、発見を得る。逆説的にも、「こうすりゃいいだろこの映画」という発見を得る。
ワナビにとって必要なのは、アウトプットしまくるのも当然だが、とにかくインプットである。
映画が見せたミームが、自己を確立してくれる。
そしてそれをいま描いている原稿にアウトプットする。
ただ、それだけだ。
ぼくは「つまる、つまらない」のレイヤーで映画鑑賞をしない。
スクリーンに「発見」へと繋がるシーケンスを探し、拾う。
だから「発見」に至るまでの時間がただ退屈。
ただそれだけだ。
娯楽のために行ってる人は、「つまる、つまらない」の感覚で観に行ってもいいと思うが。やっぱり「発見」という見地で映画を観たほうが気が楽だと思う。
ぼくのようなワナビじゃなくても、人生の糧になりえるものが映画には語られている。それを根気よく発見するんだ。
この考え方を押し付けるつもりはないが、こういうふうに個人的に僕はそう観てるだけ、ということです。