大草原の小さな寒村

孤独に歩め。悪をなさず。求めるところは少なく。林の中の象のように。

『ブラックホークダウン』 『劇場版 SHIROBAKO』

ブラックホークダウン』


この映画はとてつもなくホモソーシャルが極まってる。

仲間の痛みも悲しさも恐怖も全て仲間同士で共有しあうホモソーシャル

最後の述懐シーンだって、「戦争中毒じゃない。仲間のために戦う。」と発言がもうホモソーシャル

それに実話を元にした現実のホモソーシャル話だし、戦場(マチズモ全開な場所)の極限状態のホモソーシャルだから、この映画は僕が観てきた中で最高水準のホモソーシャル映画だと思います。

そう、この映画はホモソーシャルを描く以外のイデオロギーがないのだ。

よって、これは反戦映画ではないわけだし、『世界侵略: ロサンゼルス決戦』のような「米軍バンザイ、君も兵隊になろう」という映画でもない、かといって『スターシップ・トゥルーパーズ』みたいな戦争をバカバカしく描いたシニカルな戦争映画でもない。

だとしても主人公の成長(フューリー的な)だとか、仲間同士の葛藤プラトゥーン的な)だとかを描いているわけではない。プライベート・ライアン的な)アメリカという存在はこういうものなのだ」というような主張もない。

まさにゲーム『CoD』のようにひたすら撃ち合う。仲間が負傷する。撃ち合う。仲間を守る。という事象を描いているだけなのだ。

最後のマラソンのゴールのシーン。この映画を締めくくるには、ああいうオチしかないんだと思う。
プライベート・ライアンみたいに墓標か、はためく星条旗か。というオチにはできない。
なんせ、これはホモソーシャル映画なのだから。
助け合った仲間同士が目的地に向かうホモソーシャルの彫刻
それがあの「マラソン」なんじゃないかと。

2021年の「アフガンから撤退した最後の兵士一名の写真」のような肖像にも似ている。



『劇場版 SHIROBAKO


クライマックス。作中劇「SIVA」のシーン。いかにも作中劇なキャラクターが、いかにもパターン化されたオチにたどり着いて、すごく安っぽかった。なんか足元見られてる感がものすごい。

そもそもこのアニメ、どう捉えればいいのか自分でもよくわからない。

制作してる人の悲哀を実際に制作してる人と同じ立場でメタ的に見ればいいの?
テンポのよさに乗ればいいの?とか、そういう頻出する疑問すら「現実で制作してる人」に せせら笑われるようで、ちょっとこの世界観には同調しかねる。極めて冷笑的というか。